ガダルカナルで戦死した一木清直大佐を偲ぶ
柳 路夫
NHKスペシャル番組「激闘ガダルカナル悲劇の指揮官」を見る(8月11日)。生き残った98歳の元兵士が感想を聞かれて絶句、ただ涙を出すだけであった。カダルカナルで一木清直大佐(陸士28期・戦死後少将)が率いる一木支隊が飛行場を守る米軍と戦い全滅したのは昭和17年8月21日であった。すでに78年たつ。916人の隊員のうち生き残ったのは128名にすぎない。万感思いが募り言葉がでないのは無理もない。
この戦いはガ島における飛行場争奪戦だが米軍が太平洋戦争で初めて見せた前面の敵、一兵も接近を許さないという火力密度を構成して徹底的に叩く戦法であった。ガ島で戦死した若林東一大尉(陸士52期。歩兵228連隊中隊長)はその「陣中日記」に具体的に記している。「攻撃してくるときは重砲、迫撃砲を4時間ぐらい撃ち続け、次は飛行機の銃爆撃を加え要すれば艦砲射撃も加えておもむろに進出してくる。白兵力なんててんで問題にしていない。日本軍に近接すると機関銃、自動小銃、手榴弾の雨を降らせ、およそ日本軍が死に絶えたと思われる頃、のそのそやってくる。不成功ならまた再びやる」
一木支隊の前面の敵の兵力は米軍1万900名であった。一木支隊のお得意の白兵夜襲も圧倒的な火力の前に為すすべがなかった。ガ島は戦略的要地でマッカサー元帥もその著「回想録」でその攻防戦を重視していたと記す。
一木大佐は陸軍歩兵学校の教官を長年勤めた実兵指揮の達人であった。精鋭を誇る旭川の第7師団の歩兵28連隊長になったのは昭和16年7月。中国戦線で活躍した。ガ島での部隊編成は歩兵一大隊(歩兵4中隊、機関銃一中隊、歩兵砲一中隊)連隊砲一中隊速射砲一中隊、通信隊、衛生隊であった。ガ島で海軍が昭和17年春から飛行場を建設中であった。8月7日米軍が島に上陸、建設中の飛行場を奪取する。このため大本営直轄であった一木支隊が急遽派遣された。そのころ一木支隊はグアムから内地へ帰国の途にあった。もともとはミッドウエーに行く予定であったが戦況の急変で取りやめとなった。人間の運命とはこうゆうもの。
NHKが入手した米軍の資料には分刻みで戦闘の詳細が書かれている。米軍は日本が上陸したことを知ってジャングルの至るところに集音機を設置して日本兵の接近を探知する。このため日本の斥候はすべて失敗した。敵情が全くわからないまま飛行場奪回を命じられた一木支隊長は米軍の兵力を2000名と過小判断、戦意も上がらずと見た。白兵夜襲を仕掛ける。圧倒的な火力と兵力の前に打つべき手段もなく、背後を6台の戦車の急襲を受け部下の大半を失った。一木大佐は8月22日午後3時ごろ軍旗を奉焼して自決した。時に49歳であった。この敗北を第17軍司令官百武春吉中将(陸士21期)が知るのは数日後である。通信が途絶えていたからである。実は軍司令部のあるラバウルまでは通信が届かないので途中、潜水艦を中継して送信することになっていたのだが海軍が他の作戦でこの潜水艦を移動させたため通信ができなくなったという。こんなところにも陸軍と海軍の不協力が見られる。
ガ島の敗北から日本の敗色が濃くなってゆく。その意味では太平洋戦争の一つの転換点であった。一木大佐の90歳の長女の方がご健在である。「当時母が部下の家族の方から消息を尋ねられて困っておりました」と語る姿が痛ましかった。
この番組がおかしたミスはこの長女の方の祈る場所が一木少将ら将兵が祀られている靖国神社ではなく千鳥ヶ淵戦没者苑であったことである。要らざる配慮をしたとしか思えない。