銀座一丁目新聞

追悼録(

伊藤整一海軍中将を偲ぶ

柳 路夫

軍歌「第二艦隊特攻の歌」は歌う。

『戦雲暗き沖縄の
山野は今ぞ火ともえて
頼むはあわれ特攻の
忠と義に散る戦果のみ」〈1番〉

山崎貴監督の映画「アルキメデスの大戦」の冒頭に出てくるのは戦艦『大和』が米軍雷撃機の猛攻を受けて沈没するシーンである。昭和20年4月7日沖縄方面へ特攻出撃したが米軍機延べ386機の猛攻撃を受け、坊の岬沖で撃沈された。乗員2千774人中救助されたのは278名であった。艦と運命をともにした艦長は有賀幸作大佐であった〈海兵45期・戦死後中将〉。「大和」は第二艦隊の旗艦。司令長官・伊藤整一中将〈海兵39期・戦死後大将〉も戦死された。享年55歳であった。

「突如と降りる大命は
第二艦隊出撃と
ただ片道の燃料と
征きて帰らぬ死出の陣 」〈2番〉

「戦艦大和先頭に
矢矧8隻の駆逐艦
これぞ日本海軍の
最後を飾る精鋭ぞ)〈3番〉

援護する飛行機もなく「大和」以下10隻の軍艦で沖縄へ水上特攻をかけるのは愚劣な作戦であった。昭和19年11月30日昭和天皇のご質問に永野修身軍令部総長〈海兵28期。元帥〉は奉答する。「戦うは亡国かもしれぬ。しかし戦わざるも亡国である。戦わずしての亡国は魂までも喪失する永久の亡国である。たとえ一旦は亡国となるとも、最後の一兵までも戦い抜けば、我々の子孫はこの精神をうけて再起するであろう」。作家吉田満はその著書「提督伊藤整一の生涯」〈文芸春秋刊〉でこのように書き「これでは神がかり的な陸軍の開戦強硬派と五十歩百歩と言われても仕方あるまい」と批判している。

「 故国の桜後にして
一図に向かう沖縄島
四月七日の海空戦
南の海は血と炎 」〈4番〉、

「 伊藤長官見送りて
剛勇有賀鬼大佐
激戦苦闘力尽き
莞爾と笑みて職に死す」〈5番〉

興亡を繰り返したヨーロッパ諸民族のたくましさを見習うべきであろう。「一度ぐらい負けたぐらいで何もくよくよすることはないよ」という敗戦直後、聞いた農村の老婆の言葉を思い出だす。

伊藤整一中将が軍令部次長時代。部下の横山一郎大佐〈海兵47期・米国駐在・少将〉に「この戦争をどういう形で集結するか検討してくれ」と命じた。横山大佐は結論だけを書いた。「戦争はどうやっても負ける。負けた結果うまく行ってあらゆる条件が日清戦争の前の状況に戻ると考えておけば間違いないだろう」〈前掲吉田満の著書〉。その通リになった。戦争を始める前に講和のときの事を考えるのが一流の戦略家のなすべきことである。 作戦の中枢に2年3ヶ月もいた伊藤中将がこの水上特攻作戦がいかに無謀であるかわかっていたはずである。事実、第二艦隊司令長官伊藤中将は反対した。連合艦隊の参謀長・草鹿龍之介中将〈海兵41期〉も『大和』まで出向き、わざわざ説得にあったほどであった。

草鹿参謀長の最後の説得の言葉は『要するに死んでもらいたい。いずれ1億総特攻ということになるであろうから、その模範となるよう立派に死んでもらいたいのだ』ということであった。伊藤第二艦隊司令長官は出撃反対に逸る部下たちを抑えて発した訓示は「我々は死に場所を与えられた」という一語であった。武士が「死に場所を与えられた」と言われては返す言葉はない。文句を飲み込むほかない。

『第二艦隊特攻の歌は作詞・松島慶三大佐・海兵45期・有賀艦長と同期生であった。作曲・海軍軍楽隊の石崎善哉であった。歌は哀れにも戦闘の意義とその様相を歌う。

「ああ三千の武士の
御霊は永久に帰らねど
誠忠義烈 後の世の
鑑と高く仰がれむ」〈6番〉