銀座一丁目新聞

追悼録(

魔人・児玉誉士夫という人物

柳 路夫

月刊『文芸春秋』8月号が「昭和魔人伝」で児玉誉士夫を取り上げた。筆者は作家の真山仁。この作家は心暖かな人柄で偏っていない所が良い。『児玉については戦後最大のフィクサー、右翼の大物、キングメーカー、政財界の黒幕、暴力団のまとめ役…様々な形容がなされます。どれも彼の一面を捕えてはいますが、しかしその本質は別にある気が私にはするのです』と書く。私は児玉も人の子であり。自分の信念に生きた国士であったと思っている。2011年5月、新聞記者クラブに書いた記事を中心に紹介したい。

『児玉誉士夫との初対面は喧嘩から始まった。面会の約束はその日の朝10時であった。世田谷区等々力の児玉邸の応接間に通されたまま主が現れてこない。イライラしてきた。11時過ぎやっと顔を出した。私は言った。「10時だというから私はここに来た。恋人との待ち合わせでも30分待っても来なかったら私は帰る。人を待たせるとは失礼だ」「いや昨夜は遅かったから……」「理由にならない」「すまん事をした」と相手は謝った。昭和30年初めのころであったと記憶する。前年に起きた保全経済会事件の伊藤斗福についての取材であったと思う。私は30歳、児玉は44歳。私にははるかに年上に見えた。修羅場をくぐってきた腹の据わった人物と感じ、悪い印象はなかった』。

このやり取りを隣の部屋で当時秘書、現東京スポ―ツ新聞社会長の太刀川恒夫さんが聞いていた。30年後太刀川さんとはスポニチの社長時代、越中島の同じ建物の同じフロアで仕事した。太刀川さんとは今でも付き合っている。3年前太刀川さんにロッキード事件についてそろそろ本当のことを発言しても良い頃だともいますがと、水を向けた。児玉のところに流れた20億円の金の行方については何も語らなかった。事件当時児玉も黙秘を続けて相手方に信義を貫いた。国のために必要名の軍用機購入に一役買ったという自負があったに違いない。児玉の罪は『脱税』で処理された。この事件では捕まった太刀川さんも拘留中の30日間黙秘した。

ある時、連載記事の中で児玉誉士夫を「黒幕」と表現した。「小さな子どもがいる。子どもにかわいそうだから黒幕はやめてください」といわれた。「ああ、この人も人の親だな」と思った。同時に記事に思いやりが必要と反省した。昭和38年8月、大阪社会部のデスクになった。ある日デスクの上に1枚のハガキがあった。児玉誉士夫からであった。「大阪で頑張ってください」と墨書きで簡単に書かれてあった。異動を知らせたわけでもないのに律義な人だと感じた。

昭和41年8月、東京本社社会部デスクに戻った。児玉から特ダネのヒントをいくつか頂いた。ここには様々な人から頼みごとが来る。正式のルートでは解決できないものばかりである。“特ダネの宝庫”である。児玉誉士夫は玄洋社の頭山満に私淑し、特攻の生みの親、大西滝次郎中将と親交があった。私は頭山満をよく知る中野正剛の謦咳に接したこともあり、大西中将は尊敬する軍人である。世評ほど児玉誉士夫を“悪者”と思えずむしろ親近感を感じていた。昭和51年3月、ロッキード事件が起き、児玉誉士夫の名前がクローズアップされた。請われて社会部長になった。ロッキード事件は田中元首相が逮捕されて終わった。だが資金の流れとして児玉ルートを残したままである。いつの日にか真相が明るみに出ることがあるのだろうか。私はどこかに真実を記した『メモ』が残されていると信じている。当時、児玉邸を見張る“児玉番”を他社が引き揚げたのちも残すなど、児玉誉士夫に手心を加えなかった。児玉誉士夫は昭和59年1月72歳で亡くなった。すでに35年も立つ。私は今もなお「罪を憎んで人を憎まず」とつぶやくほかない。