銀座一丁目新聞

追悼録(

昭和の魔人・山下奉文大将を偲ぶ

柳 路夫

月刊『文芸春秋』8月号が特別企画として「昭和魔人伝桁外れの男と女」で山下奉文大将〈陸士18期〉を取り上げた。執筆者は保坂正康氏。本誌も2回、山下大将を紹介した。戦後軍人を毛嫌いする世の中になった。歴史上名を残した人物はその都度、語るべきだと思う。

山下大将は昭和19年9月、敗色濃いフイリッピンヘ第14方面軍司令官として赴く。着任の言葉は『由来戦勝は人の和によって生じ、人の和は相互扶助の精神により生まれる』であったという。敗戦まで山下大将は比島で素晴らしい仕事をする。最後の便船「鴨緑江丸」〈大阪商船・総トン数7362トン〉で在比島の婦女子を内地へ送還した。ついで米軍の捕虜1300名、抑留民間人7000人を解放した。この時の比島俘虜収容所長代理であったのは林寿一郎中佐で、すべての処置を終えたのち連隊に戻り4月、戦死する。

戦略に優れていた。米軍がレイテ島上陸、激戦のさなか、方面軍参謀の堀栄三少佐〈陸士46期〉に『米軍はいつ、どこにどれぐらいの規模でルソン島に来るか調べてくれ』と命じる。堀少佐はすでにレイテ以後を考えている山下大将に感心する。調べて報告した内容は『米軍は1月上旬末〈昭和20年〉、リンガエンワン上陸、兵力は当初5乃至6師団、爾後サラに3乃至師団』というものであった。まさにその通リであった。また百万市民の安全を図るためマニラを戦場外とする作戦を立てたことなどである。敗戦を迎えると8月15日ではなく正式降伏調印式が行われた9月2日、ルソン島北部の山間高地の移動司令部から下りて3日降伏調印した。彼の為すこと、すべて理にかない、人情味にあふれている。降伏後モンテンルパ刑務所に収容され裁判に付される。

山下裁判はわずか32日間で結審した。初めから「絞首刑」(12月7日判決)の結論ありきであった。弁護側から出された「助命嘆願」を米最高裁判所は却下したが2人の裁判官が反対意見を述べた。「吾々の歴史において、敵の将軍を軍事活動中の行動故に裁いたことは未だかってない」。このことは東京裁判でもいえる。この裁判で無罪論を展開したインドのパール判事は「不公平な裁判というより裁判という名に値しない。儀式化された復讐である」と言っている。弁護団の一人フランク・リール大尉はのちに「山下裁判」の著書を出すが読者の反響として「今後、アメリカの将軍、大統領は絶対に降伏する気にならないに違いない。戦争というものは、山下裁判の前例に基いて敗者を絞首刑に処する理由をいくらでも発見できるものであるから」を紹介する(楳本捨三著「陸海名将100選」秋田書店)。

山下大将の辞世の句。
「満ち欠けて晴と曇りに変われども永久に冴え澄む大空の月」