久保田万太郎忌に思う
柳 路夫
「万太郎忌」は5月6日である。俳人・作家・久保田万太郎がなくなったのは昭和38年5月6日であった。享年73歳。新聞社の社会部のある先輩から『災害現場の雑感をどこから書くか』と聞かれた。私は即座に『現場の一番悲惨なところから書き出します』と答えた。その先輩は『まあいいだろう。久保田万太郎を勉強するといいよ』といった。別の先輩は『雑感は川が流れるように書くものだ。谷崎潤一郎を読むといい』と教えた。私がすでに40歳を過ぎていた頃だと思う。久保田万太郎は毎日新聞の前身『東京日日新聞』と縁があって大正10年5月から7月にかけて長編小説『露芝』を連載している。同12年にも小説『くづれやな』を連載する。もちろん谷崎潤一郎の本もかじった。
万太郎の句で一番好きなのは『竹馬やいろはにほへとちりぢりに』である。その句碑が浅草の浅草寺境内にある。一度見に行った。慶応の先輩小泉信三が「選」を書いている。
『慶應義塾在学中 年廿二の時、小説朝顔の一篇によって文壇に知られて以来五十年 小説戯曲及び俳句に名作多く 前に日本芸術会員にえらばれ後に文化勲章を授けられ 更に逝去に際し従三位勲一等に叙せられたのはその栄とするところと察せられる』
戸板康二著『人物柱ごよみ』(文芸春秋刊)にはこんなエピソードが紹介されている。久保田万太郎は保守反動で政府側べったりという評判であったが昭和15年に治安維持法で捕らえられた久保栄のために法廷で証言をした。万太郎は『久保君は学のある人です。けして悪いことをするはずがありません』といった。久保は生涯このことを恩に着ていたという。
戸板さんは別の本「ちょっといい話」(文芸春秋刊)にも久保田のことに触れている。
昭和15年頃の話。渋沢秀雄さん(実業家)がアメリカに行った時ウォルト・ディズニーと会って『舌切雀』の話をした。つまりこういうストーリーでディズニー独特のアニメーション・フィルムが見たいという意味を込めて話したわけである。すると、ディズニーはすぐに反論した。『舌を切られた雀がどうして口を利くことができるのであるか?』この話を聞いた久保田万太郎が言った『日米会談なんてムダだと思います』
示唆に富む話である。安倍晋三首相に聞かせたいエピソードである。
この話には続きがある。「いとう句会」(昭和9年創設・万太郎が宗匠を務める)の席で渋沢秀雄さんが万太郎に「私の俳句は一向に進歩しませんで」と言ったら言下に『いえ、あなたの俳句は、退歩しています』といわれたという。
思い出した。平成29年3月から6月に東京台東区で開催した『久保田万太郎展』の感想文を書いている(平成29年9月10日本誌『花ある風景』)。この企画展で万太郎の句碑が6つ台東区にあるのを知った。
▲吉原神社にある句碑(千束3-20-2)。
「この里におぼろふたたび濃き□らん」
□は「久保田万太郎全句集には「な」とある。昭和36年作・春・吉原の仲町会館竣工の句。久保田万太郎は昭和4年2月「中央公論」に「吉原付近」を書く。吉原を詠んだ句がいくつかある。
「吉原のある日つゆけき蜻蛉かな」
「吉原の菊のうわさも夜寒かな」
「吉原にむかし大火のおぼろかな」
▲浅草神社の句碑(浅草2-3-59)
「竹馬やいろはにほへとちりじりに」
昭和42年11月7日にこの句碑が建てられる。碑文には「久保田は浅草に生まれ浅草に人と成る 観世音周辺一帯の地四時風物とその民俗人情を描いた大小の詩編は日本文学に永く浅草を伝えるものというべきであろう」とある。生前、万太郎は「僕のうまれた日がロシアの革命記念日になってしまったんだよ」と面白そうに語ってゐたそうだ。
▲浅草寺奥山の句碑(浅草2-3-1)
「浅草の茶の木ばたけの雪解かな」
万太郎は浅草に生まれ、33歳まで浅草で過ごした。「浅草の詩人」と言われ、水上瀧太郎によって「抒情的写実主義」作家と言われた。
▲浅草寺幇間塚碑(浅草2-3-1)
「またの名のたぬきづか春深きかな」(伝馬町雑唱・昭和38年)
▲万太郎生誕の地の句碑(雷門1-15-2)
「ふるさとの月のつゆけき仰ぎけり」
万太郎は明治22年11月7日生まれ(当時の町名は浅草田原町3丁目10番地)。父・勘五郎、母ふさ。生家は袋物製造販売業。店にはいつも15、6人の職人が働いていた。中学生時代には1年上に後藤末雄、2年下には芥川龍之介がいた。俳句を楽しんだのは慶応大学予科文科に進んだころで暮雨と号した。松根東洋城選の「国民俳壇」に投句する。大学卒業は大正3年5月。24歳、すでに「朝顔」など小説・戯曲が認められ、新進作家であった。大正5年市村座に「句楽会」ができ、傘雨と号した。昭和2年友善堂(籾山書店)から処女句集「道芝」(149句収)を出す。時に37歳。序文を芥川龍之介が書く。翌年にも句集「ものちどり」を出す。この頃の俳句入門書は沼波瓊音の『俳句作法』と今井柏浦の『一万句集』ぐらいしかなかった。芥川は万太郎が一時期俳句から遠ざかったのを引き戻す役割を果たしている。万太郎が俳句を作り始めたのは中学3年生のころからである。見よう見まねで自分流にただ訳けなく17文字を連ねて満足していたという。
昭和21年1月1日主宰の句集「春燈」を創刊する。死ぬまで30名の43句という厳選で出発した「春燈雑詠」を一号も休まなかった。昭和33年11月句集「流寓抄」が文芸秋春新社から出る。
▲「駒形どぜう」入口前の句碑(駒形1-7-12)
「神輿まつりのどぜう汁すすりけり」
昭和41年5月浅草三社祭りの日に句碑が建立される。碑の撰文は安藤鶴夫。万太郎は大正3年から大正7年2月まで駒形に住む(駒形町61番地)。隣家から出た火で類焼、浅草の三筋町に移った。
亡くなったのは昭和38年5月8日。芝八芳園での句会「風花」15周年記念大会に出席後梅原竜三郎邸に招かれ赤貝を誤嚥、失息死した。
辞世の句。「囀りや己のみ知る死への道」
実はこの句を昭和36年4月3日に文学座の竜岡晋に示したものであった。この時慶応病院に入院中でがんの疑いがあるという診断を受けていた。
万太郎にこんな句がある。「句碑ばかりおろかに群がる寒さかな」。
「人の世の月日ながるる卯月かな」悠々
