銀座一丁目新聞

安全地帯(

雪夜の惨劇

相模太郎

「山はさけ 海はあせなん世なりとも 君にふたごころ我あらめやも」
「大君の 勅(みこと)かしこみ父母に 心はわくとも人にいわめやも」 

編者で鎌倉幕府第三代征夷大将軍源実朝は、金槐和歌集に載っている後白河法皇に対する忠誠心の現れをいじらしくも歌ったものである。それに引き換え朝廷の後白河法皇は幕府打倒を胸に秘め、実朝に対し「官打ち」繰り返す。建仁3年(1203)従五位下、征夷大将軍、右兵衛佐より建保6年(1218)権大納言兼左大将、内大臣、右大臣と亡父頼朝以上の破格の昇進であった。「官打ち」とは分不相応の官位を与え、災いを起こさせるという間接的暗殺のことである。妻を京都貴族の坊門家より迎えていた実朝は昇進を本人自身望みつつも、それが判っていたムキもあったのではないか。

実朝は建久3年(1192)8月9日巳の刻(午前10時)源頼朝と北条政子の間に、産所としていた政子の父北条時政亭で生まれた次男で幼名は千幡丸と名付けられ、兄二代将軍頼家失脚(北条時政の策謀とする)後、三代将軍となる。

時は承久元年(1219)正月27日夜、鎌倉鶴岡八幡宮寺(当時は神仏混交で僧侶が社務を司る)において実朝の右大臣になった拝賀式が行われた。折から三日前の雪が解けやらぬ上に直前に降り出してきた雪で、あたりは銀世界になった。余談だが桜田門外の大老殺害、2.26事件惨害に雪は舞台装置か。所説はあるが戌の刻(午後9時)、石段のところに隠れていた兄頼家の長男で鶴岡八幡宮寺の別当公暁(20才)に殺害された。将軍実朝は28才の若さであった。拝賀の行列一千余騎を従えた中で凶行は行われた。「親の仇はかく討つぞ」と殺害した実朝の首をかっきり布へ包んで逃走する。修羅場は紅(くれない)に染まった。逃げ行く先を同宮寺西の僧侶の住む25坊の一つへ入り、食事を所望、その間も首は離さなかったという。25坊とは鶴岡八幡宮寺へ仕える僧侶たちのいる所、ここは源平合戦で捕虜になり、転向、僧侶にさせられた平家一門の残党連中が多くいたところに注目。公暁に同調、追手と小競り合いもあったらしい。食後、宮寺の裏手、大臣山の尾根を越えようとした山中で三浦氏の手のもの長尾定景(大船長尾台)に討ち取られ、実朝の首は同じく三浦氏の手の武常晴(横須賀市武山)によって持ち去られ、秦野市東田原の現在ある金剛寺の近くに埋葬した。現在も立派な首塚が残っている。

小生、元気なころ、この公暁逃亡の山道をたどったことがある。現在の八幡宮の西裏手に二十五坊跡の碑がある小道をたどり最奥より右手の道なき道を急登し、そこから東の尾根へ登る。落ち葉の積もる藪こぎであった。途中、たぬきの糞場がある。集団で一か所にするらしい。30分ほど尾根を上下して鬼気迫る公暁死闘の往時を懐古、越えて見れば下は横浜国大付属小学校の校庭、ここは三浦義村(三浦半島一帯を持つ鎌倉有力後家人)邸跡である。義村の妻は公暁の乳母であった。何かある?

参列しなかった義村にも急報が入った。急きょ長尾定景などを裏山に出動させて討ち取らせた。義村の仕組んだ陰謀が発覚するのをおそれ、殺害に及んだか?逃亡の道を予測していたのもおかしい。義村が暗殺計画の首謀者で、実朝殺害を達成したので口封じか。と奥富敬之先生や永井路子さんは言う。三浦の方には失礼だが「三浦の犬は友を食う」といういやな諺がある。大勢力であるがため権謀術策で生き抜いてきた一族であったので考えさせられる。

また、供奉の御剣持ちの北条政子の弟、義時が行列の途中、戌の刻(午後7時)ごろ、眼前に急に白い犬が現れ心身違例(人事不省か?)となったという。そこで、源仲章が代わり御剣を持ち、惨劇にまきこまれた。ちなみに北条氏を代表するような新進気鋭の義時の振る舞いも疑問だ。かくて、首のない胴体は鎌倉大御堂の頼朝が建立した「勝長寿院」に埋葬されたという。ちなみに大蔵薬師堂にある戌神が同時刻見えなかったという伝聞も奇怪。実朝殺害にはまだまだ謎が多い。公暁はピエロであり、三浦氏、北条氏、平家一門の残党、遠くは後白河法皇の黒い手など糸ひくものは多数考えられる。史家ではない小生、いろいろな書物で自由に無責任な考えをめぐらすことができるから歴史は面白い。


実朝首塚 神奈川県秦野市東田原(五輪塔)
墓所 神奈川県鎌倉市 寿福寺
供養塔 東京都中野区上高田(文京区より移転)金剛寺 江戸下野入道佛心建立
和歌山県日高郡由良 興国寺 葛山景倫建立 
高野山 金剛三昧院 北条政子建立
中国明州 育王山 実朝のあこがれた宋の国に(分骨)伝承がある

拝賀式出立の際、詠んだ歌が辞世となった。

出て去(い)なば 主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ春を忘るな

(参考文献)

源氏三代の死の謎を探る 故奥富敬之著 新人物往来社
清和源氏の全家系
相模三浦一族
鎌倉北条一族
鎌倉歴史散歩
吾妻鏡ほか古典
なお、「後白河法皇の黒い手」は故奥富先生の造語です。