5月1日から年号(元号)が変わる。
牧念人 悠々
この5月1日に新しい年号になる。年号とは何か、国語辞典には「その天皇在位の象徴としてつける年号。明治以降は一代一元に定められた」とある。『明治』『大正』『昭和』『平成』を振り返ってみればその時代、時代の特徴が見出される。その意味では西暦より日本の伝統文化が顕在化すると言えよう。日本では大化の革新から年号が始まった。『大化元年』は645年で、36代孝徳天皇である。
『平成』の今日に至るまで1374年も続き87代の歴代天皇に248の年号を数える。明治以前は天皇の御代わり、祥瑞、疾病、飢餓などによってしばしば改元された。もっとも長続きした年号は『昭和64年』。次が「明治45年」。次が『応永35年』(1394から1428年)である。戦後一時期元号の法的根拠を失った事がある。実は元号に関する規定は皇室典範第12条に明記されていたが、昭和22年に制定された皇室典範では条文が消失、法的明文がなくなったからである。その後も慣例的に昭和の年号が用いられた。昭和天皇の高齢化と世論調査(昭和51年))で国民の87.5%が元号を使用していることから昭和54年6月に「元号法」が成立(6月12日公布即日施行)して根拠ができた。
改元の手続きはどのように行われるのか見てみる。『明治』の場合は明治天皇が慶応4年8月27日、即位の大礼を行われた後の9月8日に「慶応4年」を改めて『明治元年』と改元、一代一元制を定められた。改元の手続きは従来のしきたりから公卿の清、菅両家から元号の内案を数種ずつ提出させた。其れを議定・松平慶永が候補2,3を選び天皇に奏請。天皇は内侍所で御神楽を奏してご拝礼、天皇自らおみくじを引いて『明治』の年号を得られたという。『大正』『昭和』は皇室典範、登極令に従って選ばれた。『大正』の場合、儒学者5人が選んだ年号は『昭徳』『興化』『乾徳』『永安』『天興』『大正』であった。故実に詳しい公卿出の西園寺公望首相が自ら字義などを調べて3回の協議の結果『大正』ときまった。
この時、新年号『大正』をスクープしたのは朝日新聞大阪通信部の緒方竹虎記者であった(国務大臣・戦後自由党総裁)。学生時代からかわいがってもらった枢密顧問三浦梧楼子爵(陸軍中将・学習院院長)がネタ元であった。
『昭和』の場合はどうか。内閣案が5つ。「立成」『定業』『光文』『章明』『協中』。宮内庁案が10種。『神化』『元化』『昭和』『神和』『同和』『繼明』「順明」『明保』『寛安』『元安』
この中から一木喜徳郎宮内大臣が慎重な考査と研究を重ねて『昭和』『神化』『元化』にしぼり若月禮次郎首相に提出した。内閣案は5種がそのまま若月首相に出された。
大正天皇が亡くなられた大正15年12月25日葉山御用邸で臨時閣議が開かれ元号は『昭和』と決まった。ついで枢密院でも元号建定を決めた。この日、毎日新聞は新元号を『光文に決定』という号外を出した。明らかに誤報であった。『毎日新聞百年史』によれば、ある政治部員から持たされた情報であった。取材を続けると枢密顧問官清浦奎吾らの線からの情報も『光文』であった。ところが昭和31年9月17日宮内庁臨時帝室編修局の中島利一浪さん(当時73歳)がNHKの『私の秘密』の番組で『大正天皇崩御の際、時代の年号は私のつくった『光文』に決まっていたのが事前に新聞に公表されたので昭和に変更された』と発言して話題を呼んだ。中島さんは東洋言語学に通じ比較言語学の権威であった。中島さんが昭和31年8月29日付の『内外タイムス企画『風流録音盤・生き字引が語る日本語さまざま』の中で『江木千之元文相に頼まれて四書五経の索引のようなものである「佩文韻婦」を繰っていろいろ考えているうちに光文というのがビタリときた。これで年号が決まったが新聞社が事前に公表したというので昭和に変わった』と述べている。
平成の後の新年号は4月1日に公表される。とすると後わずか2ヶ月余である。新年号はほぼ決まりかけている。昨今の新聞記者は競争せず発表待ちなのであろう。
ネットに押される新聞であればこそ新年号を特ダネで抜く新聞社があるのを期待する。