象潟(きさがた)慕情
湘南 次郎
行春(ゆくはる)や 鳥啼魚(とりなきうお)の目は涙 芭蕉
俳聖松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月27日、江戸千住よりみちのく東北を目指し弟子の曽良を同道、「奥の細道」紀行へ多数の見送りを受けて出立した。那須―白河―松島―石巻―一関―山寺-象潟―酒田―新潟―金沢―敦賀―大垣まで約6か月の俳行であった。当時の大旅行は途中事故に遭って命を落とすこともあり、無事帰還を祈る弟子やファンの見送る情景がこの一句にあらわれている。
日本三景の景勝地松島では「其気色(そのけしき)、窅然(ようぜん)(はかりしれぬ)として美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。ちはやふる神のむかし、大山(おおやま)ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるい、詞(ことば)を尽くさむ。」(原文)と絶賛している。
芭蕉が歩んだ奥の細道の最北は象潟(現在の秋田県にかほ市)であった。象潟は太平洋側の松島に匹敵する日本海に面した八十八潟、九十九島。松の緑。能因法師(平安時代中期の有名な歌人)が「世の中はかくても経けり象潟の海士(あま)の苫やをわが宿にして」と詠んで以後有名に、中世、近世を通じ、文人墨、墨客、歌人が訪れ、歌枕にもなった景勝の地であった。芭蕉は「五月雨(さみだれ)を集めて早し最上川(芭蕉)」を下って「本間さまには及びもないがせめてなりたや殿様に」の北前船で栄えた酒田から北上し、象潟を訪れた。前夜の雨もあがり芭蕉は舟で象潟を回遊する。島々に立ち寄り松島に思いをいたし、「おもかげ松島似かよいて、また異なり。松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくわえて地勢魂をなやますに似たり。」(原文)「象潟の風情は薄紅の合歓(ねむ)の花が咲いて人身御供になった越国の西施が憂い顔に、目をなかば閉じている(ねぶる)ようである。」と記す。また汐越浜では海水に濡れた鶴の脛(はぎ)が涼しげであった。
象潟や雨に西施がねぶの花 芭蕉
汐越や鶴はぎぬれて海涼し 芭蕉
先日、同好の士に誘われ、津軽地方歴史探訪に参加し、ついでに、前回は妻とドライブで東北巡りの際、立ち寄ってから30年ぶりの象潟訪問であった。象潟は鳥海山麓に広がる遠浅の入江であった。日本海岸に多くある堆積した海岸砂丘により入江になったいわゆる潟(かた)で十三湖、八郎潟、新潟、河北潟などがそれである。惜しくも芭蕉の賞玩した象潟は、約110年後、文化元年(1804)6月4日鳥海山麓を襲った大地震によって海底から2.4mも隆起し、一夜にして海は陸地に、芭蕉たちの賞玩した風景は一変、領主の本荘藩では、干拓の手を入れ新田に活用してしまったので、いまはその水田の中、松の緑に能因法師が上陸したと伝えられる能因島を始め大小の島々、九十九島の痕跡が枝ぶりのいい松をのせ点々と昔をしのぶ面影がある。
日本海岸の雨あがりの夕暮、象潟海岸の旅館に泊り、翌日早朝からタクシーで名勝象潟と名刹蚶満寺(かんまんじ)を訪ねる。脚の悪い老生を気にかけ同行してくれた妻が象潟もひらけてしまったかと懸念していたが、変わらず名勝として保護されていた。むしろハイキングコースとして奥の細道、芭蕉の足跡は案内板も設置されよく整備されていた。特急列車が止まるが不便なところなので観光客は一組会っただけだった。芭蕉の足跡が随所に見られ、こんなところまでとは。昔の人の根性、脚力には敬服するし、今生(こんじょう)の別れのような見送りもわかる気がする。芭蕉と同じ前日は雨だったのでまさに憂うが如く、点々と往時の島々あとの松が美しく、回遊した舟を括った舟着き石が各所に残っていて往時が偲ばれる。また、古刹蚶満寺はその岸部に建っていて、鎌倉時代執権北条時頼の広大な領地の寄進があり、本堂には、現在も三つ鱗の北条紋の幕が巡らされている。また、かつては西行法師もおとずれている。
芭蕉は、無事大旅行を終えてからも各地を吟遊し、最後に大坂各所で吟席を重ね、5年後の元禄7年(1694)10月10日遂に病に臥し没した。遺言によりかねがね心酔していた木曽(源)義仲(源頼朝の命により義経に近江粟津で討滅された悲劇の将軍)の眠る近江膳所(ぜぜ)の義仲寺に葬られた。「木曽殿と背中あわせの寒さかな 又玄(ゆうげん)(弟子)」
旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る 芭蕉 (辞世)