銀座一丁目新聞

追悼録(

寺内寿一元帥異郷でこの世を去る

柳 路夫

陸軍予科士官学校59期生の区隊長であった鷹尾敦少佐(陸士53期)の著書「東南アジア従軍記」(非売品・平成9年5月発行)の中で寺内寿一元帥(当時南方軍司令官・陸士11期・陸軍大臣・伯爵)が6月12日未明(昭和21年)ジョホールバール郊外レンガムでさびしく病死したと記す。享年68歳であった。昭和20年9月12日、シンガポール特別市庁舎で行われた降伏調印式には病身の寺内元帥に代わって第7方面軍司令官板垣征四郎大将(陸士16期・陸大8期。昭和23年12月23日東京裁判で刑死)が出席した。この時、ビルマ方面軍司令官木村兵太郎大将(陸士20期・陸大28期・昭和23年12月23日東京裁判で刑死)、第3航空軍司令官木下敏中将(陸士20期・陸大29期恩賜)、第18方面軍司令官中村明人中将(陸士22期・陸大34期恩賜)、南方軍総参謀長沼田多稼蔵中将(陸士24期・陸大31期)、第10方面艦隊長官福留繁中将(海兵40期・海大24期優等)、第2南遣艦隊長官柴田弥一郎中将(海兵40期・海大23期)らが随行した。式場までの沿道で中国大衆の罵声を浴びた。連合軍の東南アジア方面最高指揮官マウントバッテン元帥は降伏の調印式が終わったもの寺内元帥の佩刀を自ら受領することを以て正式の降伏とみなすとして、サイゴンまで出向いて軍刀を受け取ったという知られざる話まである。

鷹尾さんの著書によれば寺内元帥の死に立ち会った第7方面軍第3課長兼第3航空軍参謀・今岡豊大佐(陸士37期・陸大47期)は「セントヘレナ島で世を去ったナポレオン」と同じ感慨を持ったと語った。沼田中将の話では元帥はポツダム宣言受諾に決した時、「僕はもう内地には還らない。骨は南方に埋めてくれ」と頼まれたという。沼田中将はマウントバッテン元帥の破格の配慮を得てシンガポール市内日本人墓地で火葬を執行、墓標を建てて供養したとある。

寺内元帥について杉田幸三著「日本軍人おもしろ史話」(毎日新聞刊)が次のようなエピソードを紹介する。日本の敗戦で英軍がシンガポールの総督官邸に戻った。かって邸内にあったグランド・ピアノがない。そこで日本軍の連絡事務所に詰問の手紙を出した。すぐに返事が来た。寺内元帥がチャンギー収容所にいるトーマス総督夫人が「無聊で苦しんでいるにちがいないだろう」と、収容所に運び込ませた。さらに総督夫人が交換船で帰国する際、本国に持ち帰りたいというので交換船に積み込んでやった。その後の事はトーマス夫人しかわからいというのが元帥の返事であったという。心温まる話である。

元帥は部下思いでもあった。鷹尾さんの上司は第29軍南部管区司令官・青木一枝大佐(カズキ。陸士33期・陸大44期)で、降伏後は3つの部隊を率いて英軍が要求する作業に応じて苦労をしていた。或時、元帥がマライへ来たと聞いて青木司令官が巻紙に毛筆で丁寧な一文を送った。若いときに特別の関係があって信任が厚かった。後日連絡便に託して元帥の名刺が送られてきた。それには「辛かろうがしっかり頼む」と達筆で認めてあった。元帥は苦境にある青木大佐を励まされたのであろう。鷹尾さんにとってこの一句は千金の重みがあったという。敗戦軍参謀として何とかマライの終戦処理の大半を全うして今日に至った。今後の出処進退は並々ではないと覚悟していた。このメッセージを見て目から鱗が落ちるように「ああ、そうであった。思い煩うことはない。これこそ『天の声』と覚悟を新たにしたと記す。鷹尾さんは60万の南方軍最後の梯団指揮官として昭和22年9月22日シンガポール・セレタ軍港から朝嵐丸で出港、10月23日に佐世保港に復員した。敗戦から帰国まで他の作業部隊では上官暴行などの不祥事があったが青木部隊だけは軍紀を保ち続けた。これはひとえに青木司令官、鷹尾さんの人徳のほか臨機応変の対応があったからに他ならない。危急存亡の時、物言うのはその人の器量であるのをこの著書は明らかにしている。