銀座一丁目新聞

追悼録(

磯部浅一・登美子夫妻の墓に参る

柳 路夫

秋の晴れた日(10月18日)、東京南千住の回向院にある磯部浅一・登美子夫妻の墓にお参りする(写真参照)。同行者は磯部の名を知らなかった。墓のそばには何も書かれず、墓も苔むし墓名も薄れ年月の長さを物語る。磯部浅一は2・26事件に連座、昭和12年8月19日北一輝。西田税中村孝二とともに処刑される。享年33歳。妻・登美子は昭和16年3月13日、病没、享年28歳。磯部は処刑される直前「これは妻の髪の毛ですが処刑の時、棺の中に入れてください」の言葉を残す。二人が結ばれたのは朝鮮・大邱である。それも芸者で売られて2日目の登美子をかばったのが縁という。身請金は磯部が連隊長から借金する。磯部は陸士38期生。広島幼年学校から陸士に進む。大正15年7月、同期生340名とともに卒業、朝鮮大邱の歩兵80連隊に赴任した。

2・26事件の首謀者として処刑された安藤輝三大尉もこの期である。磯部ははやくから北一輝門下に入り、昭和7年6月、大邱にいては運動がままならないとして主計に転科する。昭和9年に11月事件(陸軍士官学校事件)を起こす。村中孝次(陸士37期)ら皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒らが重臣、元老を襲撃する計画であった。未遂に終わった。 この事件で磯部と中村は停職。翌年の10月村中と連名で出した「粛軍に関する意見書」で免官となる。

何故2・26事件が起きたのか。参加人員は将校21人准士官4人、下士官87人、兵1376人(近衛歩兵3連隊・歩兵第1連隊・歩兵第3連隊野戦重砲第7連隊)にのぼる。当時の世相を見る。

▼昭和5年9月生糸暴落 明治29年以来の安値
▼同年9月       農村恐慌深まる
▼昭和6年10月     凶作で娘の身売り増加
▼同年10月      東北地方冷害

軍隊では除隊になった兵士が1年たっても職に就けない。日曜日になると兵舎に来て食事をしていく。妹から来た手紙が「生活が成り立てないので自分が身売りする」と伝える。このような事態の下で事件に参加した軍人が持っていたのは「非常に強いエリート意識に裏打ちされた使命感というか責任感だった」として福田和也はその著書「魂の昭和史」(PHP)で「2・26事件とは新しい国を作ろうとする試みであった」と主張する。

青年将校たちは皇道派と呼ばれる改革派軍人たちを首班とする政権を作ろうとしていた。澤地久枝著「妻たちの2・26事件」(中公文庫)にそのあたりの状況が生々しく出ている。

▼川島義之陸相(陸士10期・陸大20期恩賜・大将)。辞去する磯部に銘酒「雄叫」を1本差出して「自重してやりたまえ」といった。不穏な活動を理由に陸軍を追われた男と陸軍大臣の会話である。
▼真崎甚三郎大将(陸士9期。陸大19期恩賜)会見は1月18日、当時軍事参議官であった。「何事か起こるのなら、何も言ってくるな」といった。磯部が「余は統帥権干犯問題に関しては決死的努力をしたい。相沢公判も始まることだから閣下もご努力していただきたい」と千円か五百円の融通をねがうと、「その位ひか、それなら物を売って拵えてやろう」云々と快諾した。
▼村上啓作軍務局軍事課長(陸士22期・陸大28期恩賜・のち中将‣第3軍司令官・23年9月17日シベリアで没)「君たちを煽動するのではないが、何か起こらねば方付かぬ起こった方がいい」と云い。事が起こるのを待つかの態度を磯部に示した。
▼このほか古庄幹郎陸軍次官(陸士14期。陸大21期首席・大将・軍事参議官)山下奉文軍務局軍事調査部長(陸士18期・陸大28期恩賜・大将・昭和21年2月23日マニラで刑死)などと合い、いずれも同調的であると推量した。まさか軍部が国民の敵となって重臣、元老と結託はすまい、弾圧はしないであろうという確信を持ったのである。「事の起こるのを待つ陸軍内部の空気を磯部は敏感に感じ取った」と澤地さんは記す。磯部は同志に蹶起を促し"昭和維新“を起こした。

ところが昭和天皇のご意志は「木戸日記」(上)によれば「今回の事は精神の如何を問わず甚だ不本意なり。国体の精華を傷つけるものと認む」との言葉ありし由なりとある。陛下は暫定内閣も認められず「速やかに暴徒を鎮圧せよ。秩序回復するまで職務に精励すべし」のお言葉があったという。斉藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監(陸士8期・陸大17期首席・大将)の3人が殺害され、鈴木貫太郎侍従長(海兵14期・海大1期・大将)が重傷を負う。陛下から見れば青年将校たちは暴徒であった。福田和也は前掲の著作の中で『昭和天皇は憲法で規定された近代的君主だという明確な自己規定持っていたからだ」と2・26事件の失敗を明快に解説する。

15人の同志の刑死を獄舎で見送った磯部は「獄中日記」「行動記」を残す。これらの手記は好意ある看守によって獄外に運びだされ昭和42年に公表された。「獄中日記」は陛下を罵倒している。幼年学校・陸士に学んだ将校がここまでいうのはよほどのことがある。陛下への忠節はゆるぎないものであったはずである。それは校歌でも自然と畳み込まれる。廣島幼年学校時代、朝な夕なに校歌を歌う。「御詔勅かしこみ益荒男が 末は皇国の干城ぞと 敬神崇祖の念深く 肇国宮に額づきて 学びの道に勧めなん」(広島幼年学校校歌2番)士官学校でも軍歌演習で何回となく歌う。「われらを股肱とのたまいて いつくしみます大君の 深き仁慈を仰ぎては」(陸軍士官学校校歌8番)

パソコンで調べると磯部が書く言葉は激烈で怒りに満ちている。「天皇陛下 陛下の側近は国民を圧する奸漢で一杯でありますゾ、御気付キ遊バサヌデハ日本が大変になりますゾ、今に今に大変なことになりますゾ」さらに、「今の私は怒髪天をつくの怒りにもえています、私は今は 陛下をお叱り申上げるところに迄 精神が高まりました、だから毎日朝から晩迄 陛下をお叱り申しております、天皇陛下 何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」とある。

昭和維新は青年将校たちの夢と消えた。磯部浅一の辞世を残す。

「国民よ 国を思ひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ」であった。