沖縄戦で自決した牛島軍司令官の辞世に感あり
牧念人 悠々
毎日新聞夕刊(10月9日)が2面全面つぶして沖縄戦で自決した32軍司令官牛島満大将(陸士20期)の孫・牛島貞満さん(65歳・元小学校教諭)が沖縄戦を語り「9条改憲の動きに懸念」「軍隊は住民を守らない」と語っている。その中で、住民に多くの犠牲者を出す結果となった司令部の「南部撤退」と、たとへ一兵となっても戦うことを強要した「最後まで敢闘」という二つの非情な命令を何故祖父が出したのか―という牛島さんの最大の疑問の答えを牛島軍司令官の辞世にあるとみたと記述されている。
この辞世は有名である。「秋待たで 枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ」
この辞世の解釈を「秋を待たずに枯れてしまう沖縄島の若者たちの命は春になれば天皇中心の国に甦るだろう」とする。
どうであろう。少し偏見のような気がする。祖父の気持ちを理解していないように見受けられる。折口信夫は「皇国の春に甦らなむ」に注目する。「…よみがへりなむ」とはない。「来るべき御代の盛りには、今この島に朽ちゆくわが身の志も継承せられ栄えて行くであろう」という意味ではない。「よみがへらなむ」とある以上は「よみがってくれ」「よみがへってくれるように…」という義である。わが身の志を継承して行くもののあることを祈っているということになると解釈する(桶谷秀昭著「昭和精神史・戦後編・文春文庫」)。しかもその祈りは「ひそかに独り言のように言う祈りである」というのである。
私も同感である。牛島大将は昭和19年8月8日陸軍士官学校校長から第32軍司令官として沖縄に赴任された(記事では東京からの赴任とあるが正しくは神奈川県座間から赴任。夫人と一緒に座間の将校官舎に居住)。私が陸士に入校したのが昭和19年10月14日であった。前任の校長であるので特に関心が深い。戦後アメリカの雑誌が第二次大戦の日本の名将を2名挙げた。一人が硫黄島で自決された栗林忠道大将(陸士26期)。もう一人が牛島大将である。昭和19年6月23日午前4時30分摩文仁の丘で参謀長・長勇中将(陸士28期)とともに自決された。
最期の訓示が「沖縄は命運を決すべき決戦会戦場となろう」であった。東京大空襲(昭和20年3月10日)の例を出すまでもなく戦争は国民を守れないのではなく巻きこんでしまう。多くの犠牲者が出る。「旧日本軍は国民を守らなかったというのが沖縄戦の教訓です」と牛島貞満さんはいうがあなたの身内(おそらく父親は陸士58期生と記憶しているが…)はどう答えるでしょうか。
次に「有事の際、自衛隊は国民を守ってくれるか」と牛島さんは疑問を投げかける。実に素朴な疑問である。この人は自衛隊の任務が分かっていない。自衛隊の“主たる任務”は「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対して我が国を防衛することである」。だから戦闘を第一義に考えるのは当然である。“必要に応じて”公共の秩序の維持にあたるのである。災害出動はこれにあたる。
憲法9条がある限り自衛隊は違憲である。いくら解釈憲法で押し通しても国際情勢の変化とともに無理が出てくる。国軍の存在を明記すべきだと思う。別に戦争をするといっているのではない。自分の国は自分たち守るのは当然である。「自分の国を自分たちで守る」気概を失った国は滅びるほかない。歴史のしめす通りである。戦後73年、憲法を一度も改正しない国は日本だけだ。憲法解釈だけでその場、その場を切り抜けてきた。
藤原正彦さんは著書「日本人の誇り」(文芸春秋刊)の中で次のように指摘する『戦後教育は「日本がすべて悪かった。日本軍人は国民をだまして戦争に導いた極悪人だ」と教えた。「戦争は自衛のためであろうとすべて悪だ」と考えつづけ言い続けることこそ平和を愛する人間の証と信じている』。
私はいい加減にしろと言いたい。牛島貞満さん。時には靖国神社に参拝したらいかがですか…