銀座一丁目新聞

追悼録(

『戦陣訓の歌』・小野田少尉と黒埼との交流

柳 路夫

毎日新聞で一緒に仕事をした北野栄三君(京都在住)からこのほど「新聞記者は何をしたか」の一文をいただいた。その中で昭和49年3月ルバング島から帰国した小野田寛郎少尉と元毎日球団社長・黒崎貞治郎さんとの交流について書いている。

「日本に帰ってきた小野田さんが最初に行きたかった場所は1年半まで一緒に戦っていた小塚金七一等兵の墓であった。小塚一等兵の墓に額づいた小野田少尉は立ち上がるとフト歌の一節を口ずさんだ。テレビカメラがこの音を捉え、それがそのまま放送された。それは「戦陣訓の歌」であった。二人がこの歌で鼓舞され、支えられていたのかもしれないがこの作詞者は黒崎貞治郎さんである」

黒崎さんは私が毎日新聞に入社した時の社会部長である(昭和23年6月)。黒崎さんが抜擢した平正一デスクの元に「下山事件」(昭和23年7月)の取材にあたった。入社早々の察回り記者全員がこの事件に駆り出された。他社が「他殺説」を唱える中、毎日新聞のみが「自殺説」を報道。警視庁史も「自殺」と記している。「下山事件」は私にとって取材の原点となった。黒崎さんは梅木三郎の名前で『長崎物語』(作曲・佐々木俊一)『空の神兵』(作曲・高木東六)などを作詞、その道ですでに著名な人であった。

北野君の論文を続ける。「紹介する人があって黒崎は小野田少尉と一対一で会った。あの日、小野田が唱ったのは『戦陣訓の歌』の三節だった。

「五条の訓(おし)え 畏(かしこ)みて
戦野に屍 さらすこそ
武人の覚悟 昔より
一髪土に 残さずも
誉になんの 悔いやある」(作曲・須磨洋朔)

黒崎は会うなり、単刀直入に「どうして愛唱していたのか」と聞いた。小野田は明快に「勅諭に基づく戦陣訓ですが、常にそらんじているわけにはいきません。その点『戦陣訓の歌』はエッセンスを歌い上げているので、つい口に登り、心の糧になっていたのです」

『戦陣訓の歌』は昭和16年1月8日「陸軍始め観兵式」に東条英機陸軍大臣が全軍に示達した「戦陣訓」の副産物である。当時ビクターが梅木三郎作詞・須磨洋朔作曲で発表したが他社からも「この種のものは他社が独占すべきものでない」とクレームがついて、コロンビア(作詞・佐藤惣之助、作曲・古関祐而)、ポリドール(作詞・藤田まさと作曲・江口夜詩)から歌詞も曲も異なったものが発売された。いずれも「陸軍省推薦」のお墨付であった。だが、ヒットしたのは梅木三郎のものだけであった(坂本圭太郎著「物語・軍歌史」・創思社出版)。

北野君の論文を続ける。『小野田はさらに付け加えた。「私は、<一髪土に残さずも 誉になんの悔やある>が好きだった。その前の三行はこの部分を呼び起す前置詞だと思っていました」黒崎はこれを聞いて「小野田さんはクールな批評家だ」と感心した。そのクールさゆえに情勢の変化や環境の変転に対応できる。それが30年間も戦い続けられた理由だろうと黒崎は納得した。「普通の兵隊さん」ではなかった小野田少尉の真骨頂を、自らも「普通の新聞記者」ではなかった黒崎はハラの底から理解した』

陸士61期の八巻明彦君はその著書『軍歌歳時記』で「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」のテーマを身を以て実践した小野田少尉の口から出たのが「戦陣訓の歌」だったと記し、「歌の力というものの大きさを痛感した」と結ぶ。

黒崎貞治郎さんは昭和50年10月30日死去。享年72歳であった。黒崎さんから遅れること39年、小野田寛郎さんは平成26年1月16日死去する。享年91歳であった。私には黒﨑さんが小野田さんに贈った『戦陣訓の歌』の歌詞をしたためた色紙の行方が気にかかる…