銀座一丁目新聞

安全地帯(

権現山物語
敗戦時の先輩たちの自決その2

信濃 太郎

先の号で河辺虎四郎著「河辺虎四郎回顧録(毎日新聞刊・昭和54年7月15日発行)に描かれている終戦直後、自決した幾多の陸軍の将帥について引き続き紹介する。河辺虎四郎中将(陸士24期・陸大33期恩賜・参謀次長)は昭和20年8月15日陸相官邸で割腹自決した阿南惟幾大将(陸士18期・陸大30期・享年58歳)について日記につづる。

『午後有末精三第二部長(陸士29期・陸代6期恩賜・中将)、磯矢伍郎第三部長(陸士29期・陸大37期・中将)と同道して仮の大臣官邸(高級副官舎)に行き大将の遺体の前にぬかずく。「一死以て大罪を謝す」の遺書を書き「大君の恵みに浴みし此の身には言い遺すべきかたこともなし」一首を残す。林三郎大佐(陸士29期)の手によって面上の白布が取り除かれた。瞑目結唇、端然たる相貌、まさに神々しさを感ぜしめた』。

阿南陸相は“徳将"であった。「上を敬い下を愛し、他を強いることなく自らを断じて行う」人であった。石原莞爾中将(陸士21期・陸大30期・恩賜)が東条英機大将(陸士17期・陸大27期・陸相・首相)に嫌われ予備役なろうとしたとき折、「もっと気持ちを大きくして石原のような人材を使わなくてならない」と諫言したという(岡田増吉著「日本英傑伝」)。諫言空しく石原中将は昭和16年3月31日予備役に編入された。さらに空襲で三鷹の私宅付近がやられた夜、近隣の救助に奔走し、たまたま卒倒していた老婦人を自ら抱え来てこれに人工呼吸を施して蘇生させ、このことを誰にも語らなかったという。

私は阿南大将の格言「勇怯の差は小さいが責任感の差は大なり」突き詰めれば人間が問われるのは仕事に対する責任感である。戦後私はこの言葉を胸に生きてきた。

昭和20年8月16日夜、参謀本部第2課晴気誠少佐(陸士46期・陸大53期)市ヶ谷の元陸軍士官学校の演習砲台付近で同課・同期生の益田兼利少佐(陸大54期首席)が立ち合いのもとで割腹自決する。晴気少佐はサイパン方面の作戦では守備隊の編成当時からそれらの業務を分担していたので「サイパン失陥当時すでに自責感から自決しようと考えていた」という。実兄慶胤大佐(陸士35期・陸大43期)は第7課長(中国情報)であった。益田少佐は戦後自衛隊に入り、20年後再び自決の場に立ち会う。昭和45年11月25日東部方面総監の時、三島由紀夫事件に巻き込まれる。部下9人が日本刀で切り付けられ、三島由紀夫の自決を見る羽目になる。

昭和20年8月18日満州.琿春で第112師団長中村次喜蔵中将(陸士24期)と参謀長安木亀二大佐(陸士32期)が自決する。8月9日満州の東部国境を突破したソ連軍に対して112師団は激戦を展開、肉弾を以て機甲部隊にぶつかったが敗退を余儀なくされた。安木大佐の息子・安木茂君は59期生である(船舶・16中隊3区隊)。安木君に頼まれて彼の中学時代の親友で同期生の川口久男(航司偵・24中隊4区隊平安鎮・平成19年4月21日死去)の句集「旅のあかしに」を編集して自費出版したことがある(平成22年7月)。その時、安木君は「父は満州で師団長とともに戦死したようだ」と言っていた。

昭和21年3月23日、上村幹男中将はソ連抑留中、ハバロスクスで自決した。享年53歳。河辺中将とは陸士も陸大も同期、ともにドイツ駐在武官もやる。

昭和20年8月15日、第5師団長山田清一中将(陸士26期・陸大35期恩賜)が蘭領印度のセラム島で自決した。師団参謀長の浜島厳郎大佐(陸士33期)はそれを先立つ8月6日、カイ島で自決した。終戦直前、部隊移動のために病院船を使用、米海軍駆逐艦2隻に拿捕され、1500人以上の将兵がアメリカ軍の捕虜となる「橘丸事件」が起きた。その責任をとったものである。

岡本清福中将(陸士27期・陸大37期恩賜)は昭和19年3月、参謀本部第2部長からスイスの駐在武官となった。岡本中将はたびたびドイツに派遣されており陸軍部内の欧州通であった。終戦工作をしたり、終戦後における天皇の地位についての各国の情報を打電したりしている。故国の敗戦を知り8月15日スイスの居宅でピストル自決をする。享年51歳であった。

「事しあらば 千たび八千たびあらわれん 内外の敵にやはかけがさん」と辞世を残して昭和20年8月17日、咸興で自決したのは朝鮮第137師団長秋山義兌中将(陸士24期・陸大32期)であった。

河辺中将らの24期生は陸士各期に中で特に多士済々である。明治最後の卒業生で明治45年5月734名が卒業している。第35軍司令官としてレイテ島で悪戦苦闘してセブ島からミンダナオに向かう会場で戦死、大将に昇進した鈴木宗作.斉藤義次中将は第43師団長としてサイパンの防衛に任じたがほとんど準備もなく米軍の上陸を迎え玉砕・自決した(昭和19年7月6日)。沖縄戦では中島徳太郎中将が歩兵63旅団長として奮戦、6月22日自決している。中野英光中将は第51師団長としてニューギニア戦で悪戦苦闘、サラモア、ラエを放棄してサラワケット山脈に求め標高4000メートルの険峻な山を踏破した。中沢三夫中将は59期生60期生の予科士官学校校長であった。劇作家岸田国士も24期生。少尉の時、病気で軍職を離れた。