銀座一丁目新聞

茶説

歴史は繰り返す「政治家と官僚」

 牧念人 悠々

「回首五十有余年(首をめぐらせば五十余年)
人間是非一夢中(人間の是非は一夢の中)
山房五月黄梅雨(山房五月黄梅の雨)
半夜蕭蕭灌虚窓(半夜蕭蕭として虚窓に灌ぐ)

この詩を読んだ良寛は74歳まで生きたが五十余年の人生を振り返って人の世の良いことや悪いことは夢の中であったといっている。江戸時代50代と言えば人生の晩年である。この気持がよくわかる。思わず「じんかん ぜひ ゆめのなか」とつぶやく。

新聞に掲載された財務省の公文書改ざんのいきさつを読むと高級官僚の政治家に気を使う姿が浮かんでくる。公文書改ざんの発端は2017年2月17日の衆院予算委員会での安倍晋三首相の発言である。「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」、この首相の言葉につじつま合わせるための改ざんであったとしか思えない。人事権を首相官邸に握られては致し方ないのであろうか。

私は思い出した。昭和31年代、三原信一社部長時代、官僚の実態を描く大型連載「官僚にっぽん」(第5回菊池寛賞受賞)を連載した際、平野勇夫君(故人)、藤野好太郎君(故人)らとともに取材にあたった。当時の高級官僚が異口同音に言っていたのは「我々も悪いが政治家の方がもっと悪い」という言葉であった。次回の連載のテーマは「日本の政治」と思った。そこで政治部のデスク。官邸キャップなど主要な政治部員と懇談した。全く話が合わなかった。「政治にはお金かかるもの」「100万200万円は、お金ではない」という。「10万円は大金」と思っている社会部記者たちはこの企画をあきらめざるを得なかった。政治部の協力がなかったらこの企画が成功しないからだ。

それから10年後事情は一変する。昭和41年(1966年)から昭和42年(1967年)にかけて政界に不祥事が相次いだ。荒船清十郎運輸相(昭和41年8月1日就任)は国鉄当局に選挙区の埼玉県深谷駅に急行を停車させるよう要求し10月のダイヤ改正で急行が停車するという「職権乱用事件」が起きた。荒船大臣は就任72日で辞任した。上林山栄吉防衛庁長官(昭和41年8月1日就任)は就任早々軍楽隊を連れて鹿児島へお国入りをした。この事件は“薩摩陸軍元帥”復活劇と言われた。上林山長官は3ヶ月後に辞任する。松野頼三農相(昭和41年8月1日就任)は共和製糖、バナナ輸入に関しての政治献金問題を追及された。松野農相も3ヶ月後に辞任する。山口喜久一郎衆議院議長(昭和40年12月20日就任・41年12月2日辞任)は東京大証事件に絡んで倒産した東京大証の社長水野茂彦の結婚仲人をし、同社のPRパンフレットに利用されたというので辞任した。この時期、私と藤野君は社会部のデスクとなっていた。「好機至れり」と政治追求のキャンペンの企画を立てた。それが「この黒い霧を払え」であった。ハイライトは田中彰治代議士事件であった。「黒い霧キャンペン」は昭和41年8月から昭和42年7月まで1年間にわって展開された(昭和42年度新聞協会賞受賞)。

昭和42年1月29日第31回総選挙が行われた。黒い霧のキャンペンにあげられた荒船清十郎、上林山栄吉,松野頼三らは当選した。自民党は277議席を確保、前回より6議席を減らしただけであった。「毎日新聞百年史」は「黒い霧はまだ晴れなかった。“黒い霧”というキャチフレーズそのものが甘かった」と記す。この時、私が出したタイトルは「この悪の司祭者たち」であった。どぎついというので却下されたのを思い出す。黒い霧諸事件から50年。政治家も官僚も小粒になったと思うがやっていることはあまり変わらない。歴史は繰り返すというほかない。 良寛ならずとも「半夜 粛々として 虚窓に灌ぐ」気持ちにならざるを得ないではないか。