銀座一丁目新聞

安全地帯(575)

信濃 太郎

権現山物語
敗戦時の先輩の責任の取り方

敗戦後日本は国民の手で戦争責任を追及しなかったという批判がある。私は日本国民は他から指摘を受けるのではなく潔く自ら身を処したと言いたい。河辺虎四郎著「河辺虎四郎回顧録(毎日新聞刊・昭和54年7月15日発行)に、終戦直後、自決した幾多の陸軍の将帥が描かれている。河辺虎四郎中将(陸士24期・陸大33期恩賜・参謀次長・昭和35年6月25日死去)は記す。「栄光に輝いた日本陸軍のこの惨めな敗戦に臨み、何事かの自責感、ないしは虜囚の恥辱感等から、自らの生命を絶った人は、終戦のその日から翌々22年にもわたって、内地外地を加えて60人近くを数えた」。武人は名誉を重んじ、恥辱より死を選んだ。

本書に収められた自決者について他の資料も補強して述べたい。本庄繁大将(陸士9期・陸大19期。昭和20年11月20日自決・享年69歳)満州事変勃発時、関東軍司令官であった。翌年3月、五賊協和王道楽土の満州国の建国が宣言された。満州事変の論功行賞で功一級・男爵をもらった。2・26事件の際は侍従武官長であった。残された「本庄日記」には天皇が叛軍と断じ経済を心配し鎮圧を命じたことなどがしるされてある。事件の責任を取って辞任する。その後傷兵保護院総裁として戦傷者の保護に任じた。昭和20年11月19日GHQから戦争犯罪人として逮捕拘禁の指令を受けたが20日平常通り保護院に出勤午前10時半自決した。机上に2通の遺書と半切に墨書した「誠以貫」の3文字があった。その遺書には満州事変の本質を述べその一切の責任は自分にあるとしている。

安藤利吉大将(陸士16期・陸大26期恩賜・昭和21年4月19日・上海で自決)。終戦時台湾総督であった。台湾を空襲した米軍飛行士の処刑問題に絡み上海監獄に入られ、獄中で自決された。在英大使館付武官当時(昭和7年5月から昭和9年5月まで)。ベルリンで在欧武官会同が行われた際、河辺中佐もモスクワから参加。先任者が安藤少将であった。

田中静壱大将(陸士19期・陸大8期恩賜・昭和20年8月23日自決・享年58歳)終戦時第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官であった。6月15日の宮城事件を鎮圧、その責任を取って東京日比谷の第一ビル内の東部軍管区指令室でピストル自決した。遺書には「陛下にお詫び申し上げます。皆は断じて軽挙自決は慎まれたい」とあった。田中はマッカーサー元帥を比島から追い払った当時の最高司令官であった。田中大将は河辺中将の兄河辺正三大将とは陸士で同期の親友であった。大正8年3月から軍事研究で英国に駐在。その間オックスフォード大学でシェックスピアを専攻する。英国紳士型の教養を身に着ける

篠塚義男中将(陸士17期・陸大23期恩賜・昭和20年9月17日自決・享年62歳)大東亜戦争開戦前の軍事参議官会議にメンバーとして出席開戦の議決に服した責任を感じて自宅で割腹自決した。昭和12年秋、陸士本科が市ヶ谷から座間に移った初代の校長。謹厳そのものの典型的な武人であった。河辺大将もその高潔な人格に啓仰している。

寺本熊市中将(陸士22期・陸大33期・昭和20年8月15日自決)終戦時航空本部長、対米航空決戦の敗北の責任をとった。「私の細い神経は、この国家の悲況に生きるに堪えない。あいすまぬがあとをよろしく頼むと」と遺書を残す。河辺大将とは陸大同期で航空関係で因縁深く、時々寺本さんの部下になったこともある。その直情純真な性格と職責に対する熱意振りに敬意を払った。第4航空軍としてニューギニアでは悪戦苦闘した。

安達二十三中将(陸士22期・陸大33期・昭和22年9月10日ラバウルで自決・享年57歳)ニューギニアで悪戦苦闘を続けて破れ戦後現地の戦犯裁判で終身刑の判決を受けた後、収容所で割腹自決された。安達中将の人格と性行は知る人すべてが崇敬おくあたわざるところであった。戦陣で「日本外史」を手放なさなかった。第8方面軍参謀長加藤錀平中将(陸士25期・陸大36期)あての遺書には次のようにあった。「3年に及ぶ作戦の感、10万に及ぶ青春有為の陛下の赤子を喪った。しかも,その大部は栄養失調による戦病死である。自分は打ち続く作戦に疲労困憊した将兵たちに対して,人として堪えうる限度をはるかに超えた艱難辛苦の敢闘を要求した。その結果、力尽きて死んでいった若き将兵たちと運命を共にすることを私は以前から決心し、願っていた。今や残務も一段落したので、ここに自決する。従来の親交を謝する」(岩川隆著「孤島の土になる友」BO級戦犯裁判・講談社刊)

河辺中将はこう結ぶ。「我々軍人以外に戦争責任に殉じた大臣級の諸氏をはじめ民間烈士の自刃自決は非常な数にのぼっている。古今東西の史上敗戦に伴ってこれだけの自決者を出した国民がどこにあるだろうか。これが民族の誇りというべきものでもなかろうか、一つの特質とはいえるであろう」