銀座一丁目新聞

花ある風景(668)

川井孝輔

久能山東照宮と三保の松原

予て一度はと思って居た、久能山東照宮に参詣して来た。特に家康が好きというわけではない。近代日本の基礎を開いた政治家的武将として畏敬されることと、日光東照宮との対比をしたいと思ったからである。最近の一人旅は旅行会社や宿に敬遠され気味だが、久能山ということで、ケーブルの有無も気になっていた。幸い、序に廻るつもりの三保の松原近くに、「天女の舘 羽衣ホテル」が取れ、ケーブルも確認できた。久能山は予想外に交通の便が悪く、静岡駅迄行って戻る形になるのだが、バスで日本平迄行きそこから、ロープウエーで久能山に向かうことになる。日本平は富士山を望む景勝の地で、平らな処と思っていた。が、可なりの高さに在って、山頂の有度山は標高307mと、久能山の標高216mよりも高い事を知る。特に平原と云う訳でも無く、ホテル付きの高原ゴルフ場や遊園施設その他が点在して居た。

久能山にはケーブルで、わずか5分程で着いた。其処に東照宮の社務所があり、入場門もある【1】。他には売店が在るだけだから、山全体が東照宮の所領【2】なのだろう。見ると本殿は未だ相当高いところに在るようで、急な階段が眼に入る。幸い備え付けの竹杖が有ったので借用して進む。それにしても蹴上げの何と高いことか。立派な石階段はさすがと思うが、たっぷり30㎝以上有るのには閉口した。杖が有ったから良かったものの、杖なしでは「ギブアップ」しただろう。

途中、参拝の案内板を読む。ご祭神は家康の他に信長・秀吉が並んで祀られてある由。家康の遺言でもなかろうが、驚いた。社殿は家康が亡くなった1616年の5月に着工、翌年の12月に完成した。平成22年には社殿が国宝に指定され、13 の建造物が国の重要文化財に指定されたとある。境内外の博物館には、東照宮伝來の宝物を中心に、総数2000点を収蔵している由。

重要文化財の楼門【3】には、後水尾天皇御宸筆「東照大権現」の額【4】が掲げられ、「勅額御門」と称する旨の案内板があった。付記するならば、後水尾天皇は、徳川幕府が「京都所司代」を設け、更には「禁中並公家諸法度」その他を公布した事に不快を覚え、34歳で退位された。自ら設計した「修学院離宮」に隠棲され、昭和天皇に次ぐ長寿を全うされた上皇と、過日離宮を見学した時に承知したのだったが・・・。果たして御宸筆が、ご本心からのものであったかどうか、甚だ疑問に思われる。

楼門を潜った処に人が集まり、家康公の手形【5】に手を当てているのが眼に入る。物好きにも真似てみたが、意外と家康の手が小さい。其れもそのはず、身長が165 ㎝足らずだったようで、此れは新発見。この辺は比較的緩やかな勾配で、海側「一ノ鳥居」からの参道石段を登ってくると1100 段程になり、拝殿迄なお59段有るとの表示【6】が在る。家康が駿府城に在って、自らが育てた「実割梅」を宮司がこの地に移植した由来記を読む。しばし梅の木を観賞し、明治6年の神仏分離で取り払われた、高さ約30mもあった五重の塔跡の石碑【8】等をゆっくり見学する。

愈々本殿に向うが、階段上の唐門【7】を仰ぐと通行止め。右方に迂回して日吉神社の前から社殿域に入ることになる。社殿のある区域は意外と狭い。国宝に指定されている拝殿・本殿の全容を、カメラに納めようとしたが無理だった。やむなく透塀越しに拝殿【9】を撮る。権現造りの社殿は総漆塗の極彩色で流石に豪華絢爛である。日光東照宮より19年前に建てられたが、彫刻・模様組物等に桃山時代の技法を取り入れた、江戸時代初期の代表的建造物と云う。拝殿正面【10】からだが、石の間・本殿と続く奥の方は暗く、よく見えなかった。二度と来られぬ思いを込めて、丁重にお参りをした。

神廟(遺骸を埋葬した墓所)は、塔の高さ5,5m。外回り8mの石造りで、遺命により西向きに建てられている。丁度本殿の真裏に在って、途中の通路には灯籠【11】が見事に並んで居た。案内板で読んだ通りの豪壮な神廟【12】だが敷地が大権現のものにしては如何にも狭い。小さな山の頂上に在るのだから無理ない事だが。

その久能山は、592~628年の頃久能忠仁が此処に久能寺を建て、静岡茶の始祖と言われる円爾や、行基等の名僧が往来して隆盛を極めた。駿府に進出した武田信玄が寺を矢部地区に移し、この要害地に久能城を築いたのだった。その信玄が没し、家康の所有する処となるが、隠居して駿府城に居た家康はこの城が大変気に入った。「久能城は駿府城の本丸」と思う、と言ってその重要性を説き、死後は此処に葬るように遺言したと云う。 博物館には家康使用の茶・薬道具等の他、歴代将軍の武器・刀剣類が展示されてあったが、収蔵された品のほんの一部に過ぎない。眼を引いたのは、洋時計【13】である。最近大英博物館との共同調査によって、制作当初の状態で保存されて居ることが分かり、歴史的価値の高い事が判明した。両陛下が興味深げにご覧になる写真が、掲示されてあった。

久能山南端からの眺望【14】は中々のものだった。此処に見える石段の頂上部【15】は、海岸に並行して走る久能街道の、「一ノ鳥居」から続く正式参道である。「一ノ門」を潜ってすぐの門衛所【16】を通過する事になるが、凡そ1100段もの石段を登る事を考えると、ぞっとする。何れにしても、昔は之が唯一の参詣路であった。手に入れたチラシ【17】に、「東照宮を巡る聖なる三本のライン」が在る。日光東照宮の他、全国に32もの東照宮が存在するが、このようなラインを何時発想したのか、どのような思い付きが有るのか不明だが、葵の御威光には想像以上のものを感じる。

「天女の宿 羽衣ホテル」は和風【18】旅館であった。「富士山・信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産、として世界遺産に登録されている「三保の松原」が、すぐ目の前に在るのが何より嬉しい。未だ陽が高いので早速散歩に出かけた。

伝説「羽衣の松」初代【19】は切られていたが、大事に保存されて居る。隣の三代目羽衣の松【20】が健在だが、その大きいのに驚く。案内板【21】を読むと、フランスの舞姫「ジュグラリス」は欧州各地で「羽衣」を演じて、この地への憧れを強く持っていた。残念なことに観る事なく亡くなったが、彼女の遺志を偲ぶ立派な石碑【22】が建てられた。この一帯には異様な姿の松【23】が群居しているが、暫く歩くと如何にも松原らしい雰囲気の散歩道【24】が続く。見上げると富士【25】が浮かんでいた。

翌日改めて海岸に足を延ばす。何といっても此処での富士は、松原海岸を入れたものが定番だが、中々良いポイントが無い。安倍川にダム建設の影響で水量変化の為か土砂の流出が少なく、砂浜の浸食に追いつかないらしい。目下の海岸は、巨大なテトラポットが目につくばかりで、風情に欠けてしまった。それでも一枚【26】撮ってみる。頭の中に描いたのは、チラシで見る定番もの【27】だったが残念だ。三保の松原と言えば、誰でもが静かな浜を予想する筈だが、中々の飛沫【28】を勇壮に揚げている。馴染みのない羽車神社【29】があった。帰宅後に調べて見ると、稍々離れた処に在る、大国主命を祀る御穂神社の分社の由。大国主命は、美しい三穂津姫命との新婚旅行で、「羽車」に乗って「三保の浦」に降臨して鎮座されたとの伝承がある。それが御穂神社の起源だと言われ、格式も高い。尚、羽車神社のご神体は羽衣の松だと云う。なるほど初代羽衣の松に寄り添うようにして在った。

新三景の碑【30】がある。大正5年に新三景として、大沼(北海道)・耶馬溪(大分)と共にお墨付けを得たとある。耶馬溪は観たことが有るので私見だが、三者夫々の風情は大層異なる。やはり気比の松原(福井)・虹の松原(佐賀)と並ぶ、「日本三大松原」としての「三保の松原」がしっくり来ると思えるのだが。小さな飛行場が灯台【31】近くに在ると聞いて、海岸沿いを歩く。近いと思ったが結構な距離で而も、灯台近く迄来て見ると、海浜の補強工事で付近一帯は立ち入り禁止。結局飛行場は、見えずじまい。県と赤十字飛行隊の訓練場で、場外離着陸場に分類され長さ500幅20mの由。歩き損の感無きにしも非ずだが、散歩の延長と言い聞かせて諦める。

帰途、松林の中に北原白秋の詩【33】を見つけ、松原を出る時には綺麗な庭園【34】を見つけた。旅館の所有らしいが気付かなかった。玄関前の小さな像は、羽衣を見つけ「天女」との遣り取りで「羽衣の舞」を観た主人公「白龍」【32】であることを、女将から聞いて宿を後にした。