銀座一丁目新聞

追悼録(671)

柳 路夫

作家古川薫さんを偲ぶ

作家古川薫さんがなくなった(5月5日・享年92歳)。平成3年第104回直木賞を「漂泊者のアリア」(平成1年9月から平成2年1月連載)で受賞する。事実を重視する緻密で雄渾な作風は“硬質の抒情"と称賛された(毎日新聞)。昭和40年(1965年)「走狗」がはじめて直木賞候補となって受賞するまで昭和48年(1973年)「女体蔵志」、昭和49年(1974年)「寒翁の虹」、昭和52年(1977年)「13人の修羅」、昭和53年(1978年)「野山獄相聞抄」、昭和55年(1980年)「刀痕記」、昭和56年(1981年)「暗殺の森」、昭和63年(1988年)「正午位置」(アットヌーン)、平成1年(1989年)「幻のザビーネ」などが候補の対象となった。

私が古川薫さんの著書の中で一番好きなのは「斜陽に立つ」(毎日新聞刊)である。この本のあとがきで「愚将の烙印を押された乃木希典の復権が、この作品と取り組む動機の一つだった」と述べている。乃木大将を愚将とは思わない私は大いに賛辞を古川薫さんに送る。世に乃木希典の「愚将説」を広めたのは司馬遼太郎である。その著書「殉死」で「軍事技術者としてはほとんど無能に近かった」と切り捨て、さらに「なぜこのような無能の軍人を大要塞の攻撃に差し向けたのか」と痛罵した。「坂の上の雲」でも同じく無能の文字が踊る。司馬遼太郎は明らかに過ちを犯したと思う。福田恒存が指摘した「見える目」で裁いたからである。福田はいう「歴史家が最も自戒しなければならいのは、過去に対する現在の優位性である。吾々は二つの道を同時にたどることはできない。とすれば現在に集中する一本の道を現在から見遥かし、ああすればよかった、こうすればよかったと論じる位、愚かなことはない」さらに言う「当事者はすべてばくちを打っていたのである。丁と出るか半と出るか一寸先は闇であった。それを現在の『見える目』で裁いてはならない。歴史家は当事者と同じ『見えぬ目』をまず持たねばならない」さらに古川薫は司馬遼太郎が引用した谷寿夫著「機密日露戦史」を結果論としての戦史であり「見える目」で書かれた戦術テキストであるとして、司馬遼太郎の「乃木ほど軍人の才能の乏しい男も珍しい」という表現が生まれたとする。さらに言えば、司馬遼太郎は「機密日露戦史」を読み違えている。陸軍技術審査部長有坂成章少将がアイデアを出し旅順に運んだ28サンチ榴弾砲にからむ問題である。「機密日露戦史」には次長宛 第3軍参謀長の電報に「28サンチ榴弾砲ハソノ到着ヲ待チ能ワザルモ、今後ノタメニ送ラレタシ」とあるにもかかわらず、「坂の上の雲」では「乃木司令部の返電は歴史に大きく記録されるであろう『送るに及ばず』というのであった。古今東西の戦史上、これほど愚かな、救い難いばかりに頑迷な作戦頭脳が存在しえたであろうか」とある。これほど悪意に満ちた表現があろうか。人間は過ちを犯す動物である。司馬遼太郎も人の子である。なぜこのような間違いを起こしたのか理解に苦しむ。

旅順攻略で最大の非難は戦死者の数であろう。第一回は明治37年8月19日から6日間行われた。1万6千の死傷者(うち戦死2千3百)第2回総攻撃は9月19日に始まり22日で終わる。死傷者4千7、8百(うち戦死1千92人)を出した。第3回総攻撃は11月26日始まったがまた失敗した。ここで要塞正面の攻撃を中止して全力を尽くして203高地攻撃を開始した。三万余のロシア兵が守る203高地の攻略は28サンチ榴弾砲の猛射と肉弾攻撃でも容易に落ちなかった。11月30日から12月6日までの7日間日本兵の死傷者は6千2百人を数えた。12月6日203高地は陥落、31日に全要塞を占領した。第1回総攻撃から開城まで155日わたる旅順作戦に参加した日本軍は延べ12万人、死傷者5万人(戦死者1万4千)、ロシア軍の要塞守備兵3萬5千人、そのうち戦死者5千人、負傷者2万人を超えた。

乃木軍がかくも多くの犠牲を出したのは大本営の「強襲ヲモッテ一挙ニ旅順城ヲ屠ル」という過酷な方針があり、弾薬の不足(「機密日露戦史」も指摘する)があげられる。他国の要塞戦の攻防を見ると、第一次大戦におけるヴェルダンの要塞戦では守備軍のフランス軍に36万人、攻めるドイツ軍に34万人の死傷者を出した。その攻防200日、それでもドイツ軍は攻略できなかった。乃木軍は旅順要塞を155日かけドイツ軍の6分の1の5万人の死傷者で、ロシア軍を降伏させた。古川薫は控えめにいう「単純に比較できないにしても世界戦史のうえからみれば、第3軍の勇猛な戦いぶりを拙劣極まるものばかりとはいえない。さらにはその悲惨な戦闘を、現代の安全地帯にいるものが、あたかも観客席から見るように、嘲笑するというのはどうであろう」

最後に著者は結ぶ「憂い顔のまま乃木希典は、斜陽に立つ孤高の像を今の世に残した。自敬に徹したこの最後のサムライにとって世上の毀誉褒貶はむえんのざわめきでしかなかった」この結びの言葉は、これから起きるであろう司馬遼太郎の乃木愚将論、思い違いなどに対する的確な指摘である。古川薫さんがなくなってさらに強く思う。