銀座一丁目新聞

花ある風景(667)

ごんべい

Sagacity

まさか首記の横文字(佐賀市)に、賢明・機敏・利口・聡明の意があることを知る人は、少ないのではなかろうか。中学2年迄英語を学んだ小生も、賢明・賢いを意味する横文字として、clever或いはwisdomを承知して居たのだが、首記の意味は全く想定外の事であった。早速辞書を引いたところ、これが事実なのである。最近佐賀在住の知人より戴いた【佐賀の12賢人・歴史散策お楽しみ帳】の表紙を開くと、〈Sagacityとは、賢人の都であった〉と最初に大書してあるのだ。大層な自信である。これを入手した経緯は、先に国立博物館の生い立ちを調べた時に、赤十字社の創立に関わった佐野常民が、「佐賀七賢人」の一人であることを初めて知り、そのことでお尋ねした折の返事に送って戴いたものである。処が、この冊子の内容が頗る面白い。賢人12人の生い立ちから、後世に残した業績を簡単に記したものだが、大変充実して居り、楽しく而も興味津津に読了したものだった。

「佐賀七賢人」とは「鍋島直正・島義勇・佐野常民・副島種臣・大木喬任・江藤新平・大隈重信」を云うとある。枝吉神陽を加えて「佐賀八賢人」。相良知安を加えて「佐賀九賢人」。そして更に徐福・成富兵庫茂安・高遊外売茶翁を加えて「佐賀の12賢人」と云うのだそうだ。筆者にとってその名を初めて知る賢人が半数近くいるのだが、特に「徐福」を12賢人の筆頭に据えているのが、彼の地の人との思いが強いだけに、意外に思えた。其処で取り敢えずは、徐福に就いて調べて見た。

ご存じ徐福は秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて旅立ち、東方の三神山にその仙薬が有ると具申した事で著名である。そして彼は、3000人の童男童女と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って東方に船出した。そしてその地で王となり、戻らなかったとの記述が、司馬遷の「史記」に在るという。3000人の数字は、白髪3000丈の類かと思うのだが、三神山とは蓬莱・方丈・瀛洲のことで日本を指すと伝えられる。日本各地に徐福伝説が残されたことを、寡聞にして知らずに過ごして来たが、この佐賀県にはNPO法人徐福会が在り、徐福を祀る金立神社と公的資料館徐福長寿館が在る事を知り、伝承とはいえ見逃す事ではないとの思いに駆られる。

徐福は前278年の生まれというから、今から2300年も前のことだが、ウイキペデイアに依れば、秦朝の方士(道士・神通力の有る仙人)で、斉国琅邪郡(現山東省臨沂市周辺)の出身とある。1981年に中国・江蘇省に於いて徐福が住んで居たと伝わる「徐福村」が発見され、その存在が認められたと云うのだ。佐賀県徐福会の理事長澤野隆さんは、「徐福が弥生時代の前期に渡来し、稲作を中心にした弥生文化が始まったと推測される」と言い、佐賀県ひいては現代日本の基礎を築いたかと思うと、果てしないロマンを感じると述べられて居られるのだ。事実、上の写真に見られるように、有明海から筑後川沿いの浮盃に上陸したとの言い伝えが有り、此処が徐福伝説の起点になって居る。この他にも、鹿児島・三重・和歌山・京都等に、上陸或いは住み着いたと云う伝承が残されて居るが、尤も近い九州のこの地に上陸したとするのが、順当な処だろう。そして「不老不死」の霊薬は、金立山で会った仙人を通じて発見されたと云うのだ。彼が仙人から教えられた霊薬とは、右図の「フロフキ」と云う薬草であるらしい。而もそれは今尚現地に自生して居り、腹痛・頭痛に効くと、記されて居る。

五穀の種を持った3000人もの童男童女と百工(多くの技術者)達は、荒海を乗り越え漸く辿り着いた筈で、当時の事情から簡単に海を移動する事は困難の為、種を撒く適地を求めて住み着いたとするのが妥当と思われる。佐賀県には大規模遺跡の吉野ケ里が在るほどだから、当時から結構な適地があったのでは無かろうか。稲作から始めて住みついたと思われる痕跡の一つとして、右図の新北神社にビャクシンが有る。其れは徐福の種から成長したものと言われ、幹回り4.1m、樹高20mの巨木で、2200年の樹齢を思わせる風格が有る。

徐福を祀る金立神社が、金立山の山頂に在る。もともと神社に在った「絹本淡彩金立神社縁起図」が佐賀県立博物館に残されて居り、図の上段に金立神社上宮・中段に下宮・下段には徐福上陸の場を今に伝えて居る。曾って天皇や、鍋島家も参拝したと言われ、大変由緒ある神社である。金立山の標高が501,7mもあるため、勅使・一般参詣人の便を図って下宮が建てられたと云われ、下左が下宮・右が上宮である。下宮の鳥居が素朴でがっしりした構えで好ましいが、上宮の本格的社殿がよくも500mもの山頂に建てられたものと、感嘆する他は無い。尚、神社には何と50年に一度の例大祭として「お下り神事」があるとか。これは徐福が上陸して辿った、金立山迄約20㎞もの道のりを、逆に下って行く行事だそうだ。最近では昭和55年に行われたので、次回は2030年に開催されるとの事である。



以上大ざっぱに調べて見たのだが、これだけの事情を承知すると、伝承とはいえ大方が事実と思えて来る。古来我が国の生い立ち過程では、大陸からの伝承事実が有り、徐福伝説もそのような流での一齣だったのだろう。始皇帝との関係が取り沙汰されて特別扱いになったのだろうが、2300年前の事ともなれば、もはや風化され事実化されても良かろう。佐賀12賢人の筆頭に載せられても、それだけの貢献を果たした訳で、異人としても意に介する要もあるまい。此処に金立山を背にした徐福像と、徐福が日本に出航したと言われる中国慈渓市から、2011年に贈られた徐福像の立像が在る。贈られた立像の建立場所は上陸地に近い処だが、金立山を背にして立つ徐福像との視線が向いあっている由である。



それにしても、佐賀12賢人を誇りにする県民は羨ましい限りだ。他の地方でもこのように、仲間意識の持てる郷土の誇りが存在するのだろうが、さて江戸子を自認する我々にとって、誇りとする賢人とは誰になるのだろうか。