銀座一丁目新聞

安全地帯(571)

信濃 太郎

権現山物語
花も実もあり血もあり涙もある武人たれ

59期生にとって入校式(昭和18年4月1日)で聞いた陸軍予科士官学校牧野四郎校長(陸士26期・当時少将)の訓辞は忘れられない。「武士的情誼を涵養し 花も実もあり 血もあり 涙もある武人たらんことを期すべし」は人生訓であった。鹿児島県東市来町江口浜にある「牧野四郎予科士官学校長遺訓之碑」にはこの言葉が刻まれている。いまでも同期生の会話の中からこの言葉がよく飛び出す。遺訓碑は昭和63年4月17日、戦死された比島を臨む江口浜に建立された。牧野校長から直接薫陶を受けた58期、59期を中心に各期の有志1561名の協賛による1000万円の経費でつくられた。

牧野校長の息子一虎君(歩兵・11中隊1区隊)とは予科で一緒であった。戦後医者となった彼とは帝国ホテルで開かれた古希全国大会(平成7年5月)で一度会ったきりであった。平成18年10月に出した予科23中隊1区隊史「平成留魂録」には航空へ転科された福田潔区隊長(陸士51期)への寄せ書きがある。そこに彼は「薩摩軍人の熱血に燃えて只管、殉皇の大道に邁進します 区隊長殿の御武運の長久をお祈りいたします 靖国神社の区隊会待っております」と書いた。牧野一虎君は平成9年8月10日死去した。「平成留魂録」には同期生渋谷義久君(船舶・16中隊3区隊・平成16年1月9日死去)の牧野一虎君への追悼文がのっている。それによると牧野君は一家7人を養うためにアルバイトをしながら鹿児島医専を卒業、昭和27年、無医村を選んで開業。父の墓も多くの部下を死なせた責任者には墓はいらないと墓を建たせなかった。もっとも牧野校長は「墓はいらない.卒塔婆だけでよい」と言い残して出征されたという。牧野校長は昭和19年3月1日第16師団長に任命され比島レイテに出陣された。3月2日59期生は大講堂で牧野校長の決別の訓示を聞いた。「学窓の秀才必ずしも戦場の勇猛部隊長ならず。刻苦勉励して学識技能は烈々たる気迫と不屈の実行力とによってはじめて光を放つ」の教えはいまだに耳に残る。この日は朝より風が荒れて砂塵が舞い、陽はかげり、牧野校長の前途多難を思わせた。

米軍のレイテ上陸作戦は昭和19年10月19日から始まる。熾烈な艦砲射撃と爆撃の前に日本軍は敗退を余儀なくされた。西海岸のカンギポット山に移動、3月末頃、巻脚絆姿、木の杖つくベタ金の老将軍を見たという証言がある。牧野師団長とみられる。師団長の実弟和田俐大佐(さとし・陸士32期)は独立混成第36旅団参謀として16師団指揮下の部隊にあった。敗戦でレイテ島タクロバンに囚われの身となり、ひそかに兄の消息を調べたがレイテ山中で戦死とのみしか知り得なかった。「陸海軍将官人事総覧」陸軍編(芙蓉書房)によると、牧野師団長は昭和20年8月10日自決(レイテ島)と記してある。同期生鈴紀俊行君(船舶・16中隊4区隊・平成23年2月7日死去)は昭和29年フイリッピンに出張、レイテ島タクロバン市、サマール島ギアン市等で米軍再上陸地の戦火の跡の鉄くずを集荷して八幡製鉄に納入し逆にフイリッピン水道局に1万トンの水道管(保田、栗本製)を納入した商売を複雑な気持ちで思い出しますと記す(前掲「平成留魂録」)。

平成8年4月、私はスポニチ登山学校を開設した際。登山学校の校則の第三条に「常に情誼の厚い人間たれ」を設けた。牧野校長の言葉が頭にあったからである。登山学校の生徒たちの中には何故このような文言があるのか疑問に思ったものが少なくなかったが登山を重ねるごとに「情誼こそ団結の基本である」のがよく理解できたという。

同期生野俣明君(船舶・16中隊5区隊)は書をよくする同期生今村明君(航空整備・26中隊2区隊)が墨で書いた「花も実もあり血もあり涙もある武人たるべし」の額を部屋に飾る。戦後自衛隊に入った彼の貴重な人生訓となったという。

牧野校長の陸士26期には名将・勇将が少なくない。硫黄島で戦死された栗林忠道大将など挙げればきりがない。航空に進んだ田中長君(航空司偵・24中隊3区隊)は「黙々と私心を去りてはらからよ進み行かなむ予科生徒我は」と詠った。