銀座一丁目新聞

追悼録(669)

柳 路夫

東部ニューギニア遺骨収集の記

「東部ニューギニア遺骨収集派遣団の記録」が中川玲奈さん(立教大学文学部3年生)からこのほど届いた。中川さんの行動力には頭が下がる。東部ニューギニアと言えば、戦犯裁判で無期の判決をうけた後、自決した第18軍司令官安達二十三中将(陸士22期)が思い出される。

安達第18軍司令官の統率の神髄は「人間として実行できる命令を出す。部下が直面する苦難は指揮官もともに味わう」であった。部下から慕われた武人であった。昭和17年11月ラバウルに着任。18軍の任務は東ニューギニアの守備であった。その3ケ月後、ガダルカナル島は米軍に奪取される。すでに制海権、制空権ともに米・豪軍に握られ、食糧・武器の補給がなかった。全線で悲惨な戦いが強いられた。基幹兵力の第41師団(阿部平輔中将・陸士21期・昭和18年6月10日没)が東ニューギニア中北海岸のウェワク、第20師団(青木重誠中将・陸士25期・昭和18年6月29日没・ニューギニア)がその東方マダン,第51師団(中野英光中将・陸士24期)がさらに東端のアント岬をまわりこんだラエ、サラモア地区に布陣、各師団はジャングルの大海に浮かぶ孤島に似た関係となり、緊密に連絡取り戦うことが出来なかった。投入した兵力は15万人そのうち12万7600人が戦死した。その多くが餓死であった(未帰還遺骨概数7万6320柱)。

今回の遺骨収集派遣団は22名(期間2月14日から3月1日)。2班に分かれ遺骨収集に当たり83柱を収容する。中川さんはアイタベのレミエン地区の収容作業を記す。此処は第51師団が布陣した場所からさらに西方に当たる。

「30センチ掘ると頭蓋骨が見てきた。慎重にまわりから掘っていく」「きれいな頭蓋骨が出てきた。ほりの浅さ、後頭部の突出の少なさでモンゴロイドとされた。鑑定人の方が一緒にいることで、その場でご遺骨を鑑定してくれるのである」(遺骨鑑定人を同行)。過去の遺骨収集で現地人が地域の墓を掘り出して日本兵の骨だと虚偽の申し出で謝礼を受け取った事例があった。

今回、派遣団長の判断で日本人だと確実に鑑定されたものだけを日本に持ち帰ることになった。掘り出された四肢骨は日本人か現地人かわからないため鍵付きのケースに入れて埋め戻したという。中川さんはその中に日本人の遺骨もあったという疑念を抱きながら「いつかまた来ます。その時は一緒に帰りましょう」遺骨に手を合わせ心の中で唱えたと記す。

遺骨取集作業中、胃腸薬「クレオソート」や10銭銅貨3個がみつかる。クレオソートは正露丸で腹痛にはよく効く薬であった。10銭は「苦戦(九銭)を超える」というので千人針に縫い付けられたものである。

自決した安達中将が使用したのは錆びた果物ナイフであった。古式に能って切腹した。遺書に言う。「作戦3歳の間10万におよび青春有為なる陛下の赤子を失い、その大部分は栄養失調に起因する戦病死なることを想到する時御上に対し奉り何とお詫びの言葉も無之候」「黙々遂行し、花吹雪の如く、散りゆく若き将兵を眺むる時、君国のためとは申しながら断腸の思い」昭和20年9月10日午前2時ごろであった。 派遣団のほとんどは日本遺族会、東部ニューギニア戦友・遺族会の方々で構成される・中川さんが属した第1班には数え歳77歳の人が多かった。そのうちの人が言う。「親父が死んでおふくろはどんな気持ちだったか。おれたちは小さすぎてそれすら知らない。でもね。生きているうち、うごけるうちは、ニューギニアに来て遺児がご遺骨を見つけることが大切だと思う」中川さんは思う。「できることなら、もう一度この地を訪れ少しでもご遺骨を本土へお連れするお手伝いが出来たらと考える」