銀座一丁目新聞

追悼録(667)

柳 路夫

同期生野地二見君を偲ぶ

同期生野地二見君が亡くなった(3月9日・享年92歳)。葬式は3月16日東京・代代幡斎場で密葬により行われた。式場に野地君のスナップ写真と彼が描いた風景画が飾られた。フジ子・ヘミングの「リストのピアノ協奏曲第一番変ホ長調S124」の調べが流れる中を焼香する。同期生として北俊男君、霜田昭治君と私が参列した。野地君は死ぬまで歌心を忘れなかった。雑誌「偕行」3月号(3月1日発行)の「短歌教室」(第574回)に彼の歌が何と2首掲載されている。

「降る雪も輝く月も咲く花も一期の名残と目をこらし見つ」
「命あらばまた会うこともあるものと思ひし人は疾く旅立ちぬ」

この歌を詠む限り野地君は死を覚悟していたように見える。

彼の功績は何と言っても昭和50年1月から活動を始めた「同台経済懇談会」を作り上げたことであろう。この会は陸軍士官学校・陸軍経理学校・陸軍幼年学校の出身者で経済界で活躍している有志のための経済クラブである。毎月の懇談会における講演者の話が面白かった。また与党政治家の講演者が必ず大臣になったので評判も呼んだ。同会では6月26日「偲ぶ会」を開く。

私がこの会に入会したのは平成元年からである。一時期、私の事務所を同台懇話会の事務所にしたこともあって野地君と親しくなった。彼の瀬島龍三会長への傾倒ぶりはよくわかった。瀬島会長が平成19年(2007年)9月4日死去された後、一文を雑誌「偕行」に寄せたが彼の気持ちがよく出ていた。その時の私の原稿(平成20年1月1日号「追悼録」)を紹介して野地君を偲びたい。それが彼へ贈る最大の賛辞と思ったからである。

タイトルは「命ある限りひたすら国のために」であった。

『再び瀬島龍三さんのことにふれる(平成19年9月4日死去、享年96歳)。同期生、野地二見君が「昭和の軍人 瀬島龍三の精神」の労作を会報誌「偕行」(平成19年12月号)に発表したのに触発されたからである。この論文の中で野地君は瀬島さんにつきまとう「影と疑惑」は言われなきものであると切って捨てる。その指摘している批判・非難の殆どが同じ誤解か流言からの引用でしかないと、指摘する。瀬島さんの沈黙については「どうせ何を話しても君らは自分の思っているように歪曲して書くだけだからな}と瀬島さんは相手にしなかったのだという。新聞記者の場合、相手を攻めるとき、まず周りの話を聞いて固めてから最後に相手に話を取るのが常である。だから相手が認めてくれたらよしとするが、否定しても沈黙しても、周りを固めた事を真実と見なして書く。沈黙した場合はまず肯定したものと受け取る。瀬島さんは経験的にそれがわかっていたのであろう。

野地君は仙台幼年学校から陸士に進んだ後輩として、また昭和49年に設立した同台経済懇話会の代表の就任のお願いに行って以来35年にわたり会の運営について毎月何度も参上して報告し話を聞き、役員会や趣味の会(陶芸)での旅行などをともにしてきた。同台経済懇話会は戦後の将校団といえるもので、瀬島さんの東京幼年学校以来の同期生である陸士44期生を初め陸軍省や参謀本部などの勤務された諸先輩から当時の瀬島さんの話を聞く機会があった。その上、野地君の仙台幼年学校時代の生徒監、三上憲次さんは44期で東京幼年学校以来の同期、また予科の区隊長、西宮正泰さん(53期)は富山出身で瀬島さんの若い頃から自宅にまでたびたび訪れていた人であった。彼が瀬島さんを語る上で重要なファクターとなっている。

瀬島さんは昭和7年歩兵科のトップで卒業する。昭和13年12月陸大51期のトップで卒業、1年後に参謀本部付きとなる。瀬島さんを批判する評論家たちはここで大きな過ちを犯す。それは参謀本部の組織と運営の無知からくる。だから参謀本部での作戦計画は開戦から終戦までまるで瀬島さんがすべて計画しそれが敗戦に導いたかのように思ったり書いたりする。そのようなことはありえない。

ちなみに昭和17年1月1日、大東亜戦争開始直後の参謀本部の主要ポストを紹介する。

参謀総長 大将 杉山 元(陸士12期、陸大22期)
参謀次長 中将 田辺盛武(陸士22期 陸大30期)
総務部長 少将 若松只一(陸士26期 陸大38期)
庶務課長 大佐 柴田芳三(陸士32期 陸大43期)
教育課長 大佐 清家武夫(陸士34期 陸大42期恩賜)
第一部長 少将 田中新一(陸士25期 陸大35期)
作戦課長 大佐 服部卓四郎(陸士34期 陸大42期恩賜)
作戦班長 中佐 櫛田正夫(陸士35期 陸大44期)
兵站班長 少佐 高山信武(陸士39期 陸大47期首席)
航空班長 中佐 久門有文(陸士36期 陸大43期恩賜)
編成動員課長 中佐 美山要蔵(陸士35期陸大45期)
防衛課長 大佐 吉武安正(陸士33期 陸大45期)
第二部長 少将 岡本清福(陸士27期 陸大37期恩賜)
ドイツ班長中佐 穐田弘志(陸士36期 陸大46期)
南方班長 中佐 日笠 賢(陸士35期 陸大44期)
英米班長 少佐 加藤丈夫(陸士39期 陸大47期)
支那課長 大佐 都甲 徠(陸士33期 陸大44期)
支那班長 中佐 鈴木卓爾(陸士34期 陸大44期)
ロシア課長大佐 松村知勝(陸士33期 陸大40期)
ロシア班長中佐 林 三郎(陸士37期 陸大46期恩賜)
謀略班長 中佐 門松正一(陸士37期 陸大46期)
第三部長 少将 加藤鑰平(陸士25期 陸大36期)
第四部長(欠)
戦史課長 大佐 小沼治夫(陸士32期 陸大43期)
戦略戦術課長 同

この陣容で瀬島さん(陸大51期首席)は作戦課・作戦班の中の対北担当であった。数や文書のまとめの能力を買われて班の全般にわたる作業を文書にまとめて記録する班長補助役を命じられていた。課長・班長は30期代で、いずれも陸大で恩賜・首席クラスである。瀬島さんが優秀であってももっと優秀な先輩がずらりといた。昭和19年10月の台湾沖の航空戦で海軍発表の戦果が過大であると気づいた鹿屋基地に派遣されていた堀栄三少佐(陸士46期、陸大56期)がその旨の緊急電報を参謀本部に打電したのに瀬島参謀が握りつぶしたと伝えられている。この時期、瀬島さんはこの年の9月から11月いっぱい「心気症」で療養中であった。作戦課で勤務していなかった。握りつぶせるはずがない。野地君は瀬島たたきに仕立てられた話のようであると説明する。

関東軍参謀になったのは昭和20年7月1日である。そのときの第一部長は堅物といわれた宮崎周一中将(昭和19年12月14日就任・陸士28期、陸大29期)であった。戦後残された「宮崎日記」には瀬島さんの名前は出てこない。

瀬島批判・非難グループが取り上げるのが東京裁判に瀬島さんがソ連側の証人として出廷したことである。満州の鉄道司令官であった草場辰巳中将(陸士20期、陸大27期)は東京に連れてこられてから覚悟の自殺をされた。敵側の証人になるのを武人として耐えることができなかった。なぜ瀬島さんは日本の「平和に対する罪」に対する断罪にソ連の検事側証人として立ったのか疑問がおきる。野地君は、瀬島中佐は関東軍の副参謀長であった上司の松村智勝少将(昭和18年8月2日関東軍作戦課長・昭和20年3月1日関東軍総参謀副長兼務)を証人にさせることは絶対にできないと決意していた。自らがこの役を果たそうと覚悟していたと推測する。つまりこういうことである。「関特演の全貌を知っているのは自分である。編成も動員も作戦計画も参謀本部の作戦課の時に知っている。作戦計画などというものは、参謀本部の日常作業の中であらゆるシミレーションをやっており、軍は進攻の作戦開始日を予定したりするが、その実施日を決めるのは政府が決めることである。だから侵攻したなどということはあり得ないと言い切れる自信は自分にはある。敵軍の日本に対する裁判に、敵側の証人として出廷するという武人の恥を、どうして先輩にかかせるようなことが出来るだろうか」。この考えを平成18年の正月瀬島さんに野地君がぶつけたところ。かなりの沈黙後に「分かるものにしか分からない」といったそうだ。

野地君は綴る。「瀬島さんは幼年学校以来培ってきた武人の魂、日本軍人精神の根幹としての真の矜持と責任感によって、今こそ祖国の為、軍のため命を捧げる時である。いかなる状況に陥ろうとも断固として侵略の意図はなかったことを明言して、国の『平和に対する罪』を否定するつもりであった」と。

この瀬島証言はソ連側にとって不満であった。各収容所を転々とさせられた上、25年の刑を言い渡された。最後の帰国囚として昭和31年夏日本へ帰国した。

野地君は言う。瀬島さんは石原完爾のような異能の人ではない。状況判断に秀でて、意見のまとめに実に巧みな人であった。シベリアから帰国した後の与えられた仕事について、その参謀的能力を十二分に発揮した。軍人参謀としてのエリートは何人もいたかもしれないが、戦後の日本の各界がなすべき仕事について、その中広い能力と体力で懸命に取り組んで他の誰もが出来ない成果を上げた。その精神はひたすら国のため社会のためにあらゆる努力を捧げるという武人の魂であった』。

心から野地二見君の冥福をお祈りする。