銀座一丁目新聞

花ある風景(663)

並木 徹

「あらかわ宝物さがし物語~PART2~」をみる

知人の寺本建雄さんが脚本から音楽・演出まで手掛けたミュージカル「あらかわ宝物さがし物語~PART2~」を上演するというので出かけた(3月25日・サンパール荒川)。出演者は荒川区民で、オーデションに合格した者総勢56人である。内訳は小学生25人(男児1人)中学生12人(男子1人)高校生4人(男性2人)大人15人(男性8人)である。

歌って踊ってセリフを言ってみんな精一杯熱演した。荒川区の良さがよくわかった。それよりも本当の荒川区の宝物は「子供だ」という事であった。子供を大切にしない区(自治体)には明日はないということだ。寺本ミュージカルを見直した。

舞台に「あらかわ宝さがしのマーチ」が流れる。

「私ほとんど知らない荒川の街 尾久町屋荒川日暮里南千住 歩いた分だけたぶん荒川好きになる」。子供たちの踊りは溌剌としている。 面積10.16キロ平方キロメートル。人口21万5868人(2017年10月1日現在)。荒川区が生まれたのは昭和7年。この年政界・財界人へのテロが頻発したが競馬の日本ダービーが始まったし、ロサンゼルス五輪で日本水泳陣が圧勝した明るいニュースもあった。12月に起きた白木屋デパート火災で女性店員が14名死亡。この火事でズロースが普及した。物価.銭湯―7銭、大衆タバコゴールデンバット10本入り1箱―7銭、市電―7銭、そば・うどん1杯―7銭、ハガキ1枚―千厘。

俳聖芭蕉が出てくる。留別の句「行く春や鳥啼魚の目は泪」である。元禄2年(1689年)3月27日。時に芭蕉46歳、出発地点は日光街道の起点千住である。親しい人々との別離の情を行く春を惜しむ詩情にたくした。「荒海や佐渡によこたふ天の川」の句も紹介される。7月4日に泊まった越後の出雲崎での絶唱である。ついで「はまぐりのふたみにわかれ行秋ぞ」が歌われる。9月6日揖斐川を船で下って伊勢に向かう。その時の句である。行程6百里日数150日余「奥の細道」の旅は終わる。因みに彼の年代暗記術は「一路獅子(1644年伊賀上野に生まれる)の串(94年に大阪で亡くなった)焼く(89年)なり奥の細道」

小塚原刑場がある。千住街道中小名小塚原継手の西脇にあって山谷浅草と小塚原町の中間にあたる。石造半身の地蔵がある。高さ1丈ほど。同じ高さの題目の石碑が立つ。明和8年(1771年)3月3日前野良沢、杉田玄白死刑囚の腑分けをする。解体新書の出版はその4年後である。斬首刑が廃止になったのは明治14年7月24日。高橋おでんがここで刑が執行されたのは明治12年1月20日。死ぬまで情夫の名を呼び続けたという。辞世の歌「暫くも望みなき世にあらんより渡し急げや三つの川守」その石碑が谷中にある。

「小塚原情夫の名叫ぶ冬時雨」悠々

舞台は「駄菓子屋のうた」から「あらかわモンジャのうた」に変わる。みんな生きいきとする。メリケン粉、キャベツ、味付けはソースだけ。C級グルメのふるさとあらかわの面目躍如。昭和7年当時東京の貧民街に中に日暮里町と南千住町が名を連ねている。この頃、満州・ハルピンにいた私の家では冬「お好み焼き」と称して赤しょうが、ちくわ、葱などをメリケン粉の上に置いて海苔を乗せて焼いたものである。

「鉄板熱くなるまで待つのじゃ そろそろ焼けるか試すときには ひらがな カタカナ XYZ 焼けるぞもんじゃ もんじゃ もんじゃ あらかわもんじゃ もんじゃ もんじゃ C級グルメのふるさと あらかわ」

昨今、荒川区も土地の値段も上がり、高層ビルも遊園地もあって裕福になってきた。

もんじゃの中身も変わる。「「ベビースターラーメン入れて焼くんじゃ もうすこしリッチをあじわいたけりゃ チーズも入れるカレー粉もいれる」

もんじゃの故郷は荒川であると歌い上げる。

15分間の休憩の後舞台は物づくりの街あらかわを強調する。「なんでも作るぞ おれたちのまち」ケーキを作る器具、ホテルのシャンデリア、ディズニーランドの装置など荒川は何でも作っている。ミュージカルナンバーは働く喜びを歌う。「働くことは切ないときもくるしいときもあるけれど たったたった一度の人生を支えてくれるのさ 人の役に立ち感謝される私を 感じることができた時うれしくなるのさ 切ない時苦しい時役に立っているわたしを 感じることができた時生きて行けるのさ」

最期に「この街の土になる」を全員で大合唱して幕を閉じた。文化を大事にする自治体は発展すると痛切に思った。