銀座一丁目新聞

茶説

春泥を落として過るダンプカー(千笑)

 牧念人 悠々

物事は紆余曲折を経ながら落ち着くべきところに落ち着く。それが天下の定法であろう。安倍一極政治は忖度行政を生み、公僕に自殺者を出す。その遺書は権力の非情を嘆く。政治は国民の生命財産を守るのが使命に非ずや。政治家は詭弁・遁辞を弄し責任を官僚に押し付け、恬として恥じない。今や日本の政治に一人の石橋湛山もいないのか、一人の斎藤隆夫もなしや…

事の起こりは、安倍晋三首相の答弁から始まった。口は災いのもとという。昨年2月17日、衆院予算員会で安倍晋三首相は国有地を格安で買い取った学校法人「森友学園」が設立する私立小学校の認可や国有地払い下げに関し、「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と述べた。当時の佐川宣壽理財局長はそのことを“忖度"して決裁文書を書き換えた。この問題の経過と今回の国会の答弁からの推移は安倍晋三首相、麻生太郎財務相の赴くところは辞任を示す。政治家がけじめをつける時に来ている。

友人の葬儀の場で聞いた俳句が胸を打つ。

「春泥を落として過るダンプカー」(千笑)

無神経な今の政治状況を暗示しているかのようだ。庶民の感覚は鋭い。

これまで幾度となくブログで批判した。『勇怯の差は小さいが責任感の差は大きい」と敗戦時、自決した阿南惟幾陸軍大臣は己を戒めた。仕事をする上で「責任感」の有無は極めて大事である。有事の際、自衛隊員が死を恐れず任務に邁進するのはこの責任感しかないと私は思っている。昨今の官僚、政治家のだらしのなさは仕事に対する責任感の低さによる。麻生太郎財務相、安倍晋三首相は論ずるに足らない。「天の怒りか地の声か そも只ならぬ響きあり 民、永劫の眠りより 醒めよ日本の朝ぼらけ」と歌いたくなるではないか…』(3月13日)

『「正直は最大の美徳である」。最大であるがゆえに人はしばしば虚偽をなす。 森本学園の国有地払い下げをめぐる決裁文書が書き換えられたことが12日明らかになる。佐川宣壽前国税庁長官だけの責任だけでは済まされない。麻生太郎財務相の責任が問われる。これまでの事件の推移から見て安倍晋三首相の責任にまで及ぶ。「間違いはあらたむるに憚ることなかれ」。事態は安倍退陣になってきたことを意味する』(3月12日)。

友人霜田昭治君が「片瀬山通信」(3月13日)でこの問題を論評した。
『昨年12月1日、「2017年ユーキャン新語・流行語大賞」に「インスタ映え」と「忖度」が選ばれた。「忖度」は森友学園問題や加計学園問題などの報道を通じてよく耳にするようになった言葉で、「他人の気持をおしはかること」という意味である。「インスタ映え」については以前片瀬山通信に書いた。

「忖度」について考えてみたい。
森友学園問題で学園に国有地払下げた時の資料を財務省理財局が改ざんしたことが明らかになり、前理財局長の佐川国税庁長官が辞任した。麻生財務大臣さらには安倍総理の進退問題も視野に入れた与野党の対決が日を追うごとに激しくなっている。
理財局は局長以下安倍総理夫人と森友学園の関係を忖度して書類を改ざんまでして森友学園側に有利に計らったことは最早否定しがたい。

ところで、上司にとって望ましい部下はいちいち指示しなくても自分の考えを「忖度」して業務をこなす人材である。私が課長研修の頃「ほうれんそう⇒報(告)・連(絡)・相(談)」の重要性を説かれたのを思い出す。「忖度」というと負のイメージをもつ人が多いと思うが、人間関係を滑らかにする潤滑油的な役割をもつので言葉自体決して悪いものではない。忖度の度が過ぎて資料の改ざんに手を付けたことが問題なのだ。

憲法第15条第2項によれば、
憲法 第3章 国民の権利及び義務
第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

安倍総理も公務員である。施政に当たって明白な依怙贔屓があれば憲法違反に問われることになる。森友・加計学園問題にはその疑いを拭いきれないものがある。

私の母校、芝中学校に「遵法自治」の校訓がある。法を軽視する上司を諫めないばかりか、違法と知りながら上司の意図を忖度して行動する公務員の所業は「おべっか」行政である。

筆者は「忖度」という言葉の名誉回復を祈る昨今である。
それでも庶民は生きて行かねばならない。

「絶望国会議事堂に桜咲く」(悠々)