安全地帯(567)
信濃 太郎
権現山物語
参謀時代の三浦中将(2)
三浦敏事大尉は大正6年11月陸大(29期)を卒業すると原隊の金沢歩兵7連隊の中隊長を9ヶ月勤務した。その後、参謀本部勤務となる。陸大は明治18年12月24日第1期の卒業生を出してから終戦の昭和20年8月6日卒業した第60期生まで卒業生は約3000人に上る。このほか毎年、少佐、中佐クラスの優秀な人材を推薦によって入校させ1年間、軍事研究をさせる専攻科があった。此処からも優秀な軍人が出ている。
参謀本部は「大軍の統帥をどうするか」という問題解決のための組織の運用を目的に作られた。そのスタッフが参謀である。主な仕事は「作戦」「情報」「後方」である。三浦参謀は大正9年9月15日サガレン州派遣軍司令部付となり軍艦「石見」(艦長白根熊三大佐=海兵24期・中将)に乗り込み、カムチャッカ、ペトロ市、湖水調査、ペトロフスキー山探検ペトロ西海岸からポリシュレック間の調査などに従事する。横須賀港に寄港したのは大正10年6月30日であった。9ヶ月半にわたる地誌兵要調査であった。
三浦純雄君が雑誌『東郷』(平成15年11月号)に「戦艦アリヨールのその後」の一文を寄せている。紹介する。
『日露戦争においては、日本海海戦その他の戦場で、多くのロシア艦船が捕獲され、後に日本海軍の艦籍に編入されたことは、一般に知られているが、その後の活動状況などについては、あまり知られていないように思われる。私事にわたって恐縮であるが、私の父が陸軍大尉の頃、参謀本部から派遣されて、捕獲艦船の一隻である軍艦「石見」(元ロシア戦艦「アリヨール」・排水量1万3516トン))に乗艦し大正9年から10年にかけての約10カ月間,カムチャッカ方面の政情・漁業視察、地誌調査などに従事したことがあり、その軍務日誌等が残されているので、これらの資料に基づいて同艦の活動の一端を紹介したいと思う。なお、当時の写真もたくさん残されていたが、戦時中、防空壕に保管されていたものを戦後掘り出したところ、浸水のためほとんど全滅状態で、識別できるものは極めて少なく、そのうちの数枚を添付することとした。
父三浦敏事は大正9年9月参謀本部部員からサガレン州派遣軍司令部付となり、9月24日、軍艦「石見」にて横須賀を出港、10月1日カムチャッカのペトロパイロフスクに入港、爾来約10ヵ月にわたり、同艦とともにカムチャッカ方面の初視察、調査を行い翌年6月22日ペトロ洪出港、6月30日横須賀港に帰着している。大正7年(1918年)、シベリア出兵が行われ、その間、尼港事件の発生もあったが、海軍の艦隊もウラジオ、カムチャッカ方面の警備に当たっていたもので、「石見」などの行動もその一環であった。艦隊編成等は不明であるが、この期間特務艦「関東」(元ロシア汽船「マンチュリア」・排水量1万1000トン))が僚艦として行動をともにしていたようである。この後父親の軍務日記を抜粋する.主なところだけを見る。
9月30日 遥かにカムチャッカの山々を望む。山姿秀麗。航海中、12吋、8吋等艦砲射撃
10月1日 午前10時ペトロ洪着。「新高」艦長、山口領事等来艦、夕刻ペトロ市散策。
10月19日艦長以下、パトランカ温泉に行軍、行程6里強
11月3日ペトロフスキー山探検
12月12日ペテロ西海岸~ポリシュレック間調査のため約20日間の予定を以て出発(途中天候不良吹雪のため遅延し年内帰艦の臨むなく、翌年元旦帰艦)
2月1日ウチスまでの銃弾旅行に出発。本旅行には海軍より高橋少佐も加わり農商務省技師黒田氏堤商会より本間氏同行。一向4名
4月1日往復60日の銃弾旅行を終え一同無事帰艦する
4月18日アワチャ湾に鯨群襲来、海水紅色を呈す
4月26日軍よりシベリア出兵論功行賞あり
5月12日日露漁業より慰問品としてシャンパン、ウイスキー、菓子、羊羹、カステーラ到来
5月18日デンビーに至り旧交を温む。カムチャッカ河口付近解氷し水塊の漂流盛んなり
5月20日午後1時頃白金島ニコワスキーを隔つ2マイル沖に投錨、天候濃霧、ザオイコよりの悪宣伝により、上陸問題円滑ならず
5月21日艦長宣言を発表し救恤す。午前11時出港、霧中を抜錨す
5月22日濃霧中を航行午後9時ようやく湾口に入りアワチャ湾内に投錨
6月7日午前2時、ナラチェフ沖着。6時上陸。漁場視察、正午頃特務艦「室戸」入港。
6月8日ナラチェフ滞在
6月9日霧深きため午前9時過ぎ出発、陸路帰途に就く。午後9時カラフツイルカ着
6月20日ニューラ嬢の結婚式に参列
6月21日軍艦「千歳」及び駆逐隊入港、ベーリング海峡方面の調査のため、北上の片山大尉ニ10ヵ月振りにて邂逅。内地の諸情報に接す
6月23日午前10時約10カ月冬営停泊せしペトロ港を後に出港、内地帰還の途に就く。天候ようやく晴れ、海上静穏。ホームスピード。
6月24日曇天なるも海上静穏、ペトロより寒冷を覚ゆう。。機関員の努力により速力の出ること猛烈。平均9ノット以上なりと。一同帰心矢の感なき能わず。
6月30日午前8時、横須賀港入港』。
実は軍艦「石見」はシベリア出兵宣言を前に大正7年1月12日、第五戦隊司令長官加藤寛治少将(海兵18期・後に大将)のもと、ウラジオストック港に派遣されている。ウラジオに堆積されていた各種資材を敵側に入るのを防ぐためであった。前の年の11月、ロシアに革命が起こり、極東地区が無政府状態に陥ったためである。この時、加藤友三郎海相(海兵7期・大将・首相)が加藤少将に与えた訓示は「君の知らるる通りロシアの状況は猫の目如きもので、どう変わるやほとんど先の見通しがつかない。従って君に与える訓示も書きようがないので別に訓令書は与えないからどうかそのまま行ってもらいたい。君も突然のことで困るであろうがかく申す私も同じだ。いずれ赴任してから余裕があったら請訓せよ。しからざれば君のベストと信ずるところをやりたまえ」であった。日本がシベリア出兵を決めたのはその年の8月。英・仏・米と共にチェッコ軍救出が名目。大正8年6月、第一次大戦の講和条約が成立すると、連合軍は逐次撤兵したが日本軍は単独駐兵した。守備隊、居留民全員が虐殺された尼港事件が起きたのは大正9年5月であった。シベリア出兵は所望の成果をあげられず大正11年10月終了した。
白根熊三艦長の際も海相は加藤友三郎大将であった。従って三浦参謀始め「石見」の行動はシベリア出兵と大いに関連性があった。
軍艦「石見」の乗組員は次の通りである。
副長・中佐・松尾勘九郎、機関長・中佐・深江壽満雄、運用長・少佐・青山淳、水雷長・少佐・藤田寅治、軍医長・少佐・川口善一、砲術長・少佐・高橋伊望、副砲長・大尉・吉田留吉、分隊長・大尉・土屋甫、航海長・大尉松永次郎、同・大尉・久重一郎、主計長・大尉浅野要一、機分長・大尉辻晋一、同・中尉安?覚、同・中尉・西田昇、主計・中尉河村浩
日誌2月1日にみえる「ウスチ間での縦断旅行」をした高橋少佐は砲術長・高橋伊望少佐(海兵36期)である。時に高橋少佐32歳。三浦大尉33歳であった。昭和16年12月8日大東亜戦争開戦時、第三艦隊司令官、南方部隊比島部隊指揮官として陸軍と協力し人攻略した。さらに昭和17年4月初代南西方面艦隊司令官として約6ヶ月南西方面攻略直後の占領地安定のために努めた将軍である。明治21年4月20日福島で医師高橋修斉の二男として生まれる.海大17期、天竜艦長、ロンドン軍縮会議図員、愛宕館長、霧島艦長、軍令部第2部長、昭和14年11月中将、馬公要港部司令官、第2南遣艦隊司令官、呉鎮司令官などを歴任した。昭和22年3月18日死去、享年58歳であった。
なお伊望中将家は海兵一家である。長男高橋太郎少佐(海兵69期)戦死、次男義郎(海兵71期)三男鉄郎(海兵75期)、四男盤郎(海兵78期)三浦君の『東郷』の原稿が縁で三浦君と高橋家と文通が始まる。高橋鉄郎氏は川崎重工の副社長を務められ、川崎オートバイの開発者として著名である。
帰国後三浦大尉はその後、少佐・中佐・大佐と順調に進級された昭和8年8月1日の大阪歩兵37連隊長を拝命する。