銀座一丁目新聞

茶説

ガダルカナル島の遺骨収集・「後に続くものを信ずる」

 牧念人 悠々

陸士56期の先輩・大坪壽光さんから立教大学2年生・中川玲奈さんを紹介された。マスコミを志望しているという。会った印象は明朗で礼儀正しい女性であった。このほど彼女の「ガダルカナル島での遺骨収集」記(平成29年度ソロモン諸島戦没者遺骨収集派遣参加)をいただいた。写真24枚付の報告書である。遺骨集派遣団は昨年10月24日から28日まで遺骨収集作業を行い、29日に焼骨式を現地で行っている。

ガ島では昭和17年8月から昭和18年2月までの間、日米両軍が戦い、日本軍の戦死者2万名を出し、撤退作戦で1万5千の将兵が救出された。私がガ島の戦いを聞いたのは陸軍予科士官学校在学中、昭和18年5月19日であった。来校された大本営報道部長・谷萩那華雄少将(陸士29期・法務死・メダン・昭和24年7月8日)が時局講演をされた。その中で若林東一中尉(陸士52期)のガ島での戦いに触れ、見晴山で壮烈な戦死した若林中隊長が「後に続くものを信じます」の言葉を残したという話をされた。深く感銘した。

ガ島に眠る将兵の概数は2万2千人。現在収容したのは15405柱《第1回遺骨集は昭和30年》である。今回の遺骨収集で収容したお遺骨は137柱であった。骨の写真が出てくる。椎骨(ついこつ)、頭骸骨、下顎骨、もろく抜け落ちた歯。三八式歩兵銃の弾丸の写真もあった。彼女はこれらの骨からガ島の激戦を想像する。圧倒的な米軍の物量の前に日本軍は白兵戦で敗れ、挺身切込みで戦うほかなかった。その上食料が欠乏した。若林中尉は昭和18年元旦に「元旦や糧なき春の勝ち戦」と詠む。当時の日本軍には「鉄量には鉄量をもってする」戦略に欠けていた。

遺骨収集で掘られた骨には根っこが通っていた。戦い終わって72年。中川さんは書く。「かって国体護持のために自らや家庭を顧みずに一命を捧げた日本の将兵が戦地の冷たい土の中で今なお眠っている。これを見た時、私の胸は締め付けられるようだった」。

「飢島の骨に通る根っこ秋無残」悠々

遺骨収集には地元の住民の協力は欠かせない。ジャングルは足元が悪く荷物などはソロモン人に頼む。どこに遺骨があるのかわからない。不発弾も出てくる。

暇を見て彼女は川口支隊の慰霊碑の清掃に行く。昭和17年8月7日、海軍がガ島に作った直後の飛行場を米軍に奪取された。それを取り返すために直ちに一木支隊(一木清直少将=陸士28期・昭和17年8月21日戦死・兵力900名)、ついで9月に川口支隊(川口清健少将=陸士26期・兵力3500名)を派遣したがいづれも失敗。10月にはジャワに集結、内地帰還の命令を待っていた第2師団(師団長丸山政男中将=陸士23期・兵力1万名)を急遽つぎ込み、死闘が繰り返されものの遂に敗北した。激戦地アウステン山にも日本将兵の慰霊碑がある。ガ島北西海岸に現在も沈んだ状態の物資輸送船「鬼怒川丸」(6936総トン)の写真もある。昭和17年11月15日未明。鬼怒川丸は米軍機の空爆を受けて座礁した。このほか山月丸(6438総トン)、山浦丸、宏川丸も同島で沈没している。米軍は連日、5、6隻の輸送船が投錨しているのに日本軍は制空権を失い、糧秣事情は窮迫していった。この頃の電文には「今やガ島の運命を決するものは糧秣となりしかもその機は刻刻に迫りつつあり」とある。

現地で追悼式が行われた(平成29年10月29日)。一柱ずつ櫓を組み立てる。追悼文が朗読される。ついで焼骨式に移る。長い木の枝の先端にガソリンを含ませた布を巻きそれに火をつけ並べられたご遺骨に着火する。荼毘に付されたご遺骨を骨上げして袋に収める。焼骨式の着火はひどく熱いという。まさしく顔が焼けるような暑さで堪えがたいものであった。中川さんは「ようやく日の目を見たご遺骨を前にすればこれぐらいは我慢せねばという気持ちになった」と記す。日本に帰国した遺骨は東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑に仮納骨される。この5月に拝礼式が行われ正式に墓苑に眠ることができる。

ガダルカナル攻防戦は太平洋戦争の分水嶺と言われる。敗退により日本軍は戦略的攻勢から戦略的防御へ転移せざるを得なくなった。ガ島の一つの飛行場奪回攻防戦はそんな意味を持っていた。ともあれガ島にいまだに多くのご遺骨が眠る…