銀座一丁目新聞

追悼録(664)

柳路夫

俳人金子兜太を偲ぶ

俳人金子兜太さんがなくなった(2月20日・享年98歳)。2月20日の「銀座展望台」で『時事通信社、俳人金子兜太の死亡記事を誤報する(毎日新聞)。金子さんは大正8年9月の生まれの98歳である。 新聞・通信社は事実の確認を怠るとこのような誤報をする。金子さんはテレビを見る限り自分の思ったことを率直に口にする方である。得難い俳人である。日銀の面接試験にも自作の俳句を披露したエピソードがある。 私の尊敬する俳人である。

「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」兜太
「春一番兜太死去と時事誤報」悠々

この誤報もう少し丁寧な取材をすれば時事通信の特ダネであった。
日銀の面接試験の際の兜太さんの俳句は「裏口に線路が見える蚕飼かな」である。後に日銀総裁の佐々木直氏は調査局次長で専ら質問役であった。となりにいたのが柳沢人事部長。ふたりとも俳句をたしなみ、同時に「なかなかやるじゃないか」と言ったという。昭和18年9月繰り上げ卒業して日銀にいたのはわずか3日であとは海軍予備学生として応召され、敗戦の時は各軍主計中尉でミクロネシアノトラック島にいた。時に25歳。8月15日の句。

「椰子の丘朝焼しるき日日なりき」
「スコールの雲かの星をかくせしまま」
「海に青雲生き死に言わず生きんとのみ」

6歳年下の私は士官候補生として富士山麓で挺身奇襲の夜間演習に明け暮れていた。歌を詠むほどの心の余裕はなかった。

兜太さんの生まれは秩父であった。父親歯医者で俳人(俳号伊昔紅)、秩父音頭保存会の創始者であった。酔えばよく歌ったのが「網走番外地」と「秩父音頭」であったそうだ。「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」と兜太さんは詠う。

「霧の村石投(ほ)うらば父母散らん」

寺井谷子さんは「青年の鬱勃したエネルギーを感じさせる作です。この青年は霧の村を出てゆくのでしょう「投うらば」というところがこの句の命です」と解説する。

「湾曲し火傷し爆心地のマラソン」の句は昭和33年1月、転勤した日銀長崎支店時代の作。兜太さんはよく爆心地を歩いた。周辺の山の上には墓地があり爆死者の墓名がたくさん並んでいたとい。

「山上の墓原をゆく天を誹り」 「ウグイスカグラ石投(ほ)うる子いま逝く」悠々