安全地帯(565)
信濃 太郎
権現山物語
戦車兵・AH墜落事故
59期生の機甲兵(戦車兵)は51名。本科は11中隊3区隊と4区隊。隊付きは久留米戦車第18連隊と青野原の戦車第19連隊であった。終戦時には戦車を無断で持ち出し多少の暴走があったが長野県北佐久郡三都和村国民学校に移駐、ここから復員した。戦後自衛隊に進み陸将まで務めた村松栄一君(本科1中隊4区隊)は最近、事故を起こした「対戦車ヘリコプターAH-64]について一文を書いたので紹介する。
「AH墜落」
佐賀の目達原の対戦車ヘリコプターAH-64が墜落し民家を焼失し、搭乗員2名が死亡した。残念な事故であり、不幸な事故である。対戦車ヘリコプターは、その導入から維持の大綱まで関与したので、愛着のあるヘリコプターであり、事故の根源に責任を感じている。
在官中、自衛隊に国防の任務が次々に荷重されたが、それに見合う人員装備は増加されたことはなく、逆に任務を増加させ予算を削減することを平気でやる政治風潮の中でいかにして国防の任を達成するかに苦慮していた。特に「専守防衛」と言う「戦里に悖る」政治決定の下では、奇襲攻撃を受けた時の情報収集、浮動状況下の対戦車戦闘に必須の空中戦力の不在に苦慮した。もちろん、これは第一義的には航空自衛隊の戦力に依存すべきであるが、航空戦力は基地残存性に左右され、第二次大戦初期のフランス空軍の80%はドイツ空軍の初期の航空基地襲撃で吉の中で消滅したといわれており、我が国の国内の飛行場の少なさはこの不安を加速していた。
昭和49年、瓢箪から駒のように陸幕防衛編成班長になり、何とか陸上自衛隊の空中戦力を導入しようと努力した。陸自にも航空部隊があったが、機種は輸送・偵察・連絡用で戦闘力を持つものは一機もなかったし、過去に戦闘航空機への願望は殆どなかった。まず白羽の矢をタテタノハ、イギリシの垂直昇降機ハリヤーの導入であった。この戦闘機は力が強く、何よりも基地依存性が低い。この資料を収集していると、班員の中の青戸3佐(秀也・後に北方面総監)から意見具申があった。「ハリヤーは素晴らしい戦闘機だが、高価である士、操縦・維持の技術も高度であり、航空自衛隊からクレームがつく心配もある。ほぼ所要を満足させると思われるものに米軍の攻撃ヘリコプターがある」という意見であった。青戸三佐は防大4期のパイロットであった。「不勉強で攻撃ヘリコプターとはいかなるものか全く知らない。どこか近辺に現物はないか」と聞くと「最新のものはAH-ISですが、その前のAH-1Gを沖縄の海兵隊が持っています。この整備を横田の(株)日本飛行機でやっていますからそこへ行けば見られます」と言う。早速日本飛行機と調整して青戸と見学に行った。現物は我が頭に入っていたヘリコプターとは認識を一変させる武器で、操縦士と砲手の2名乗り、対戦車ミサイル・20ミリ砲装備、急降下も宙返りも出来る。パイロットはこれ1機で戦車25台やつけられると豪語していたが話半分でも10台くらいはなんとかなりそうである。「うん、これは空飛ぶ戦車だ」とすっかり惚れ込んで防衛部内を口説き落とし、これの導入を部長会議に提案するまでに各部と調整を重ねた。
ところが思いもかけずに航空機課から猛反対が起き、航空機課は後方関係も巻き込んで提案の廃案化を図りだした。これには深い因縁があった。昭和33年ごろ、多用途ヘリUH-1に小型ミサイルを搭載する研究がすすめられ、この試作を東富士演習場で実験することとなった。実験には防衛関係記者たちを招待することになり研究者達で必中の八百長芝居を組むことになった。八百長は標的の裏に爆薬を装着し、ヘリコプターのミサイル発射に関連して標的を爆破して命中を現示させる仕掛けである。この担当が機甲科部通信教官の私に回ってきた.命を賭ける実戦武器の実験に八百長を仕掛けるような仕事は御免蒙ると固辞したが命令だと押し切られた.展示は全弾命中となったが、実施報告に1弾も命中はなかったと正直に記載した。この報告の故かUH-1の改装研究は中止となった。(研究中止は誤指導で、戦闘航空機は陸自に必須のものであるから真っ当な研究を続けさせるべきであった)この研究の主任者がAH導入反対時の航空機課長であった。彼は未だUH改装に未練を持っていた。彼の根回しで部長会議はAH提案は廃案方向に進んだが、陸幕長は保留として会議を終わらせた。
部長会議1ケ月後陸幕長と装備部長が相前後して米国を訪問し、AHのプリーフィングを受け、現物を見学し、AHにほれ込んで帰国した。聞くところによると日本側の「AHはUHの改装で間に合わないかの質問が「そんな簡単なことで間に合えば多大の人員、予算をつぎ込んでAHの開発などやらない」と一蹴され日本側がAHに傾倒した一因となったようである。爾後、陸幕長先導でAHの導入が進められたが部隊編成を急ぐ陸幕長を押さえ、操縦・整備・砲手の留学研修、部品の調達・蓄積・射撃場の確保等の基盤事項を先行させ、ヘリコプターはまず2機を導入して、オペレイションズ リサーチと相まった国土での有効性を検証する等、安全確実な導入を進めた。AHの導入では腰を落として縦横の業務を確り連携させ自信のある業務を推進でき。AH-ISは後年AH-64と機種変更になったが、私には対戦車ヘリコプターは導入には安全・整備に十分な時間と訓練を重ねた記憶があり、高い信頼性と愛情を持った兵器であった。そのヘリコプターが事故を起こし民間の人間、家屋などを損傷し隊員2名の命を失い、身を切られる思いがする。いかに優れた機械でも如何に訓練整備を重ねても万全は期し得ない。残念ながら事故の絶滅は期し得ない。事故被害を受けられた方々には心から哀悼、お見舞いの念を捧げる。この事故を以て対戦車ヘリコプターの不要論を発生させないよう念願する。もちろん、事故原因は徹底的に糾明しなければならない。このヘリコプターは防衛上書くことのできない重要な武器である。