銀座一丁目新聞

安全地帯(564)

信濃 太郎

「2・26獄にひびけり陸士校歌」悠々

中学5年生から陸軍士官学校に受験した際(昭和17年8月末)、作文の題が「軍歌」であった。私は軍歌の一節を引用して如何に士気を鼓舞するかを書いた。入校してからよく軍歌演習をやった。黒崎貞明著「恋闕」-最後の2・26事件(日本工業新聞社刊・昭和55年3月16日第4版発行)を讀むと、その中に次のくだりがある。囚われの身の先輩たちが死を迎えた最期に陸士の校歌を歌ったという。歌は人を励ましもすれば慰めもする。時に気持ちを落ちつかせもする。

「蹶起将校にとって最期の7月12日(昭和11年)がやってきた。この前日の夕刻、南側の棟から変化が起こり始めた。私たちの夕食は普通のものであったが六角格子を通して見える南側の夕食はいつもとはちがう様子であった。看守の様子もいつもと違ってこわばっている。『どうもおかしい。処刑が決まったのではないか』と直感した。突然、南の方から士官学校の校歌が聞こえてきた。やがてそれが広がって監房全体の斉唱となった。まさしくそれは同志への決別の合唱であった。そして校歌から君が代に変わり、最後は"海ゆかば“となった」。

著者の黒崎さんは陸士45期。2・26事件が起きた際、満州・奉天の第1独立守備隊司令部に勤務中であった。要注意将校としてマークされていた黒崎さんは連座。軍法会議で証拠不十分で不起訴となる。

日ごろ何気なく歌う陸士校歌だがこのように悲壮な場で歌わられることもあると思うと胸が締め付けられる。

「2・26獄にひびけり陸士校歌」悠々

軍法会議で死刑判決を受けたのは17人(昭和11年7月5日)。うち15名が昭和11年7月12日(日曜日)朝7時から代々木の陸軍衛戍刑務所で3班に分かれて銃殺刑に処せられた。

第1班(指揮・松平定暁大尉=陸士34期)、歩兵大尉香田清貞(陸士37期)、歩兵大尉安藤輝三(陸士38期)歩兵中尉竹島継夫(陸士40期)歩兵中尉安原安秀(陸士41期)歩兵中尉対馬勝雄(陸士41期)
第2班(指揮・山之口甫大尉=陸士37期)、歩兵中尉丹生誠忠(陸士43期)砲兵中尉坂井直(陸士44期)砲兵中尉田中勝(陸士45期)工兵少尉中島莞爾(陸士46期)歩兵中尉中島基明(陸士46期)
第3班(指揮・山田信・少候4期)、砲兵少尉安田優(陸士46期)歩兵少尉高橋太郎(同)歩兵少尉林八郎(陸士47期)渋沢善助(陸士39期)水上源一
(民間人・牧野元内相邸襲撃に参加)

処刑後、遺体は遺族に引き渡された。棺の中の遺体は死後の処置が施され白装束であったという。

軍歌集「雄叫」によると、陸士の校歌は36期の寺西多美弥作詞・陸軍戸山学校音楽隊作曲とある。坂本圭太郎著「物語軍歌史」(創思社出版)には「軍歌不毛期」といわれた大正時代であるが次の2曲は忘れてはいけないであろうと「陸軍士官学校校歌」と「江田島健児の歌」の二つを挙げている。第1次大戦後は世界的に軍種縮小時代に入り旧式戦艦廃棄、4個師団の解散などが行われた。軍人としては肩身の狭い思いをした時期であった。陸士校歌について「全国の俊英を集めて東京市ヶ谷台にあった陸軍士官学校はその歌詞にもみられるようにはっきりとエリート意識を持っていた」と解説する。

八巻明彦(陸士61期)著「軍歌歳時記」(戦誌刊行会発行)によれば、在校生に大正9年の夏休みの宿題として「校歌作詞」が出されたという。当時、陸士在校生は本科33期生(大正10年7月437名卒業)34期生(大正11年7月345名卒業)、予科は36期生(大正13年7月330名卒業)37期生(大正10年4月386名入校・大正14年7月卒業)であった。なお35期生(大正10年10月355名入校・大正12年7月卒業)は隊付中であった。

選ばれたのが36期の寺西さんの歌であった。それを国文教官の友田宜剛教授の校閲を得て大正10年6月10日の開校記念日に発表された。

Ⅰ、大瀛の波清く寄せ
旭日かがやく秋津州
世の興亡をよそに見て
卓然立つや幾千年
君の仁慈に潤ひて
ここに生ひ立つ我等かな

これが大正12年3月に大幅に改訂される。坂本圭太郎さんが言うようにエリート意識が強いものになってしまった。八巻さんは「友田教授を中心になって改訂されたに違いない」と記す。

2・26事件の香田清貞大尉らが歌った陸士校歌は大正12年3月に改定されたものである。

Ⅰ、太平洋の波の上
昇る朝日に照り映えて
天そそり立つ富士ヶ嶺の
永久に揺るがぬ大八州
君の御盾と選ばれて
集まり学ぶ身の幸よ
8、ああ山行かば草蒸すも
ああ海ゆかば水漬くとも
など顧みんこの屍
われらを股肱とのたまひて
いつくしみます大君の
深き仁慈を思いては
「敗戦忌無念断腸股肱の臣」悠々

作詞の寺西多美弥中佐は昭和18年10月11日第14飛行団長として奮戦中、ウェワクで戦死された。「陸軍64飛行戦隊」の隊長の時、部下に空の軍神・加藤健夫中佐(陸士37期)がいた。中外商業新報(昭和14年7月21日)には陸軍航空本部の寺西多美弥航空兵少佐がノモンハン事件の際、日ソ空軍の空中戦を観戦した記事が載っている。この時「東京地方も本格的な防空訓練に入ったが、近代航空機の発達から考えて敵機来襲については決して油断があってはならない、距離の点から見て敵機が東京に爆弾の雨を降らすことは簡単であろう、市民一致して真剣な気持で訓練する必要を痛感する」との見解を述べている。

敗戦の年、本科には59期生(昭和18年4月入校2850名)60期生(昭和19年4月入校4738名)。予科は61期生生(昭和19年11月、甲として航空要員、4月に乙としてそれぞれ入校)がいた。昭和20年8月、61期生で70年の陸軍士官学校の歴史が終わった。敗戦から73年いまなお校歌は歌い継がれている。

2、誉も高き楠の
深き香利を慕いつつ
鋭心磨くわれらには
見るも勇まし春ごとに
赤き心に咲き出づる
振武台の若桜