追悼録(662)
柳路夫
同期生後藤久記君を偲ぶ
同期生後藤久記君が亡くなった(1月18日・享年91歳)。彼との思い出は多い。戦後を含めて彼の波乱万丈の半生は興味深かった。航空士官学校に進んだ後藤君は満州・杏樹飛行場で操縦訓練を受けた。此処で同期生の殉職と敗戦で帰国の途次、2人の同期生の戦死の場に遭遇する。昭和20年6月6日のこと、場所は満州杏樹飛行場。訓練中、同区隊の平勝夫君がユングマンのプロペラに巻き込まれて大けがを負い、近くの杏樹陸軍病院に運ばれ手術を受けた。後藤君ら10名が輸血したが意識を回復しないまま逝った。その年の8月9日ソ連軍の満州侵攻により退避せざるを得なくなった。8月11日午後2時ごろであった。昼食を終わって勃利駅プラットホームに集合しようとした時、ソ連の中型爆撃機約20機の襲撃を受けた。この際、武山利起夫君と仏性泰二君が線路上で銃撃を受けて戦死した。武山君は後藤君と寝台戦友であった。団着が200mそれていたら後藤君らのグループが被害に遭うところであった。戦の場の運命の分かれ道の非情さがここにあると後藤君は述懐していた。
後藤君はとりわけ航空士官学校で一緒であった自治・通産・法務各大臣を歴任した梶山静六君と親しかった(平成12年6月6日死去、享年74歳)。後藤久記君から梶山さんに関係する本が2冊頂いたことがある。1冊は「追悼 梶山静六 愛郷無限」(2001年5月1日発行、同編集員会編)。もう1冊は田崎史郎著「梶山静六・死に顔に笑みをたたえて」(講談社・2004年12月15日発行)である。同封の手紙(日付平成27年5月20日)によれば、後藤君は昨年7月医者から胃癌で余命はあと1年といわれた。抗がん剤を飲んでいるが副作用もなく大いに飲み大いに語り、月4回の仲間の集まりでも医者の誤診と言われ当惑している。先の見えてきた人生なので気の向くままに身辺の整理をしているがこの本2冊だけはそのまま処分するには躊躇を感じた。特に追悼本の中には「マスコミ関係」と言う部分もあったので、興味ある部分だけでも一読の上処分していただければ幸いだとあった。それから2年8ヶ月後、好漢後藤君はこの世と別れを告げた。
後藤君からの本のプレゼントは「月4冊の本を必ず読む」と決めている私にとって嬉しい話であった。早速読み始めた。私は兵科も歩兵、社会部記者であったので政治家とは事件取材のほかはあまり縁もなく、梶山静六君とは平成11年11月勲一等旭日大授章をいただいたお祝いに後藤君と一緒に議員会館で会ったほか、橋田壽賀子さんのパーティで雑談したくらいであまり親しくなかった。橋田さんとの縁は官房長官時代、橋田さんが講師として勉強会に出席したことによる。送られてきた本を読んで同期生の中でも尊敬する友人の一人・後藤君が梶山静六君を惚れ込んだ理由がよくわかった。梶山君もまた乱世の英雄。事に当たれば責任を以て懸命に成し遂げた男であった。『菜根譚』の一節「事をなして痕跡をとどめず」を愛唱する。達成感に浸ることができた仕事を終える時に口をついて出る詩であった。彼の本領を発揮したのは平成10年7月24日に行われた自民党総裁選挙に立候補したことだ。小淵恵三、小泉純一郎が立候補した総裁選である。田中真紀子が「凡人、軍人、変人」と名づけた総裁選挙である。梶山君の立候補理由の演説は見事であった。「私たちの社会は、国家は、今年より来年、来年より5年後、10年後、間違いなく活力が溢れて、豊かで幸せな国になれるということを確信してやってまいりました。しかしここ数年はたしてこれで良かったのかという反省が湧いてまいりました」。今、政治家で「国家」が真っ先に浮かぶ者がいるであろうか。梶山君はこの総裁選挙では落選した。
手元に元官房長官梶山静六・監修『遠別離』(作詞中村秋香、作曲・杉浦千歌)唄・遠藤実のカセットテープがある。時々聞く。平成11年12月8日同期生の集まりで梶山君が陸士の間で惜別の歌として歌われている『遠別離』の正確なテープを作りたいと言い出した。梶山君は入院直前の平成12年2月18日、後藤君と一緒に東京・新宿にある作曲家・遠藤実の事務所を訪ねテープの作成を依頼したという。このテープも後藤君から頂いた。
「程遠からぬ旅だにも
袂わかつは憂きものを
千重の波路を隔つべき
今日の別れをいかにせん」
「われも益荒男いたずらに
袖は濡らさじ、さはいえど
いざ勇ましく往けや君
往きて尽くせよ国のため」
歌うほどに涙がこみ上げてくる。嗚呼、梶山静六君も後藤久記君も今やなし…