銀座一丁目新聞

安全地帯(563)

信濃 太郎

権現山物語
趣味に生きる同期生たち

無芸大食の私は画を書いたり篆刻したりする同期生が羨ましい。まず小児科医で篆刻を楽しむ星野利勝君(航空戦闘・梅林・25中隊4区隊)を取り上げる。

星野利勝君が「中村蘭台一門篆刻展」に作品を出しているというので会場の銀座・鳩居堂画廊へ友人3人で訪れた(平成20年6月10日)。3偕と4偕の画廊を152名の会員の作品が並ぶ。毎日新聞時代「毎日書道会」に関係したことがあり、またしばしば毎日書道展を拝見しているので「漢字」「かな」「近代私文書」「大字書」「刻字」「前衛書」とともに「篆刻」には興味があった。 篆刻書の彫り方、彫る言葉の選び方、文字の配列にそれぞれの人柄が如実に表現されていて面白い。その上、文字が独創的に進化され芸術的に変形されている。その変化が楽しく見える。「天地和同」「身非木石」「乾坤一擲」「山のあなたの空遠く」「歩歩是道場」などの篆刻作品を見ていると、作者達が真剣にそれぞれの道を懸命に生きてきたことがうかがえる。星野君が選んだ篆書は「横身三界外」。「横身」と「三界」が並列で「外」の一字が並列の二文字の大きさに負けないよう彫られている。バランスがとれて味がある。星野君は夜、こつこつと篆刻をしているという。うらやましい限りである。彼からは「悠々」と「節男」の篆刻を最近頂いた。

同行の3人の友とは、写真家の霜田昭冶君(歩兵)、画家の渡辺瑞正君(平成23年12月5日死去・航空整備・26中隊2区隊)、戦史研究家の吉満秀雄君(航空)である。終わって近くの壱真(かづま)珈琲店でコーヒーを飲みながら雑談をする。霜田君は本日の案内役、1月に藤沢から撮影した新春の富士の写真をメールで送っていただいた。渡辺君は画家で絵、書など三世代家族展を開くなど話題豊富である。吉満君は「戦場にかける橋」北朝鮮版の主人公内田照次郎さんの冊子を世話人となって出版するなど隠れた戦史を発屈するのに努力している。

渡辺瑞正君を紹介する。戦後は建設会社の役員で設計を担当した。絵をよくする渡辺君が銀座の画廊で「親・子・孫三世代家族展」を開いたことがある(平成18年3月27日・NICHE GALLARY)。60余年の付き合いながら渡辺端正君のこの企てには驚いた。絵、書、刺繍など家族10人35点の作品に「家族の絆」をまざまざと感じ入った。画廊の奥まったところに夫人迪子さんの書がある。「感謝」「翰墨遊戯」「一穂青燈万古心」とある。今回の展来会の趣旨を表現している。「皆様ご来場していただいて有難うございます。家族の筆と墨の手慰みです。みんな一所懸命に書いたものです。わたしたち家族の心は何時までも変わりません」と私は解釈した。書は墨痕鮮やかである。

入り口の真正面に渡辺君の会心作「カレル橋」の絵がある。2003年2月有楽町の交通会館で開いたグループ展に出品した作品である。朝もやの漂う中に人影が7つ。全長520メートル、巾10メートル。橋の欄干には聖人やチェコの英雄など30の像があるはずだが僅かに数体が黒く見える。なんとも言えない静寂さが伝わる。定年退職後ボツボツはじめた絵だそうだが、その絵心はいたいほどわかる。その時の展覧会の出品作品41点中人物を描いたのは5点に過ぎない。そのうち2点が渡辺作品であった。「絵はその人の性格を現す」とすれば渡辺君の感覚は若くて瑞々しい。長女の三原昌子さんの長男大輔君(当時・中央大学の1年生でラグビーの選手)は墨絵の「竹」と書「作」を出している。書は小学校時代の作品というが、なかなか器用な字である。写真家・同期生・霜田昭治君は、ギターを小脇に抱えた若者を描いた迪子さんの水彩画を見て「旦那より奥さんのほうがうまいんじゃないか」と感想を小声で漏らした。この家族展は渡辺君の知人、NICHE GALLERY代表、西村富弥さんの協力によるもので、「上手下手ではなく、一つの『家族』に点る温かな『美』と『優しさ』こそ渡辺家に留まらず、無数の星のように灯ることを私たち画廊一同、希望してやみません」と語っている。同期生の友情は60年前と同じく変わらなかった。野地君、霜田君のほか吉満秀雄、別所末一、西村博、門田省三、荒木盛雄、富永実樹男、佐藤茂雄、辻村吉彦、前沢功・同夫人、横森精文夫人らが姿を見せた。

予科23中隊1区隊で一緒であった下川敬一郎君(航空襲撃・22中隊2区隊杏樹)の絵を紹介する。福岡県筑後市に住む下川敬一郎君が所属する会の展覧会があるというので東京・六本木の国立新美術館に出かけた(平成20年4月2日・会期は4月14日まで)。第67回「創元展」。びっくりした。美術館1階の展示室1A、1B、1C、1Dの4室の会場に会員1143点の絵が飾られてある。下川君の絵がどこにあるか分からない。300円で買った出品図録を見ると、曲がりくねった「20室」(27室まである)に下川君の「阿蘇秋景」があった。昭和15年に発足した伝統ある創元会に下川君が初入選を果たしたのは平成3年の50周年記念展であった。毎回展覧会に出品している。一時期がんで入院中も画材・道具を病院に持ちこんで絵を描く熱心さであった。平成18年10月、私たちが出した「平成留魂録」-陸軍士官学校59期予科23中隊1区隊―の表紙の絵「九重山」を書いていただいた。平成28年3月の「創元展」(75周年記念・3月30日・東京六本木・国立新美術館)で下川君の絵を紹介する。出品した絵『思い出』(100号)。ここ3年、下川君の描く絵は軍艦島であったが今年は一変して風景画であった。定年後に始めたというがすでに30年近い。その熱心さは下川君の性格であろう。そういえば思い出した。航空に進んだ下川君が区隊長から「君は操縦に向いていない」と言われ.あくまでも操縦希望を区隊長に強く訴えた。その熱情にほだされた区隊長が希望をかなえたことがあった。 彼の絵は緑の野原に小さく2軒の家が描かれる。故郷築後の風景だという。昨年5月に描き、半年ぐらいかかって完成させた。五月晴れの青空のもとの田園風景。人影はない。のどかだが永久の時間が流れる・・・見ていて飽きなかった。

「五月晴れ 行く人もなし 畠道」悠々

予科23中隊1区隊の同期生は40人。今健在なのは10人をわずかに超える。平成18年10月に区隊史を出したが、下川君は「この80年の人生でわずか2年5ヶ月の陸士生活であったが、この短い期間が僕の最も感動的な人生であったように思う」と書く。区隊史の表紙は下川君の描いた九重山の絵であった。下川君の定年後の生き方に見習うところが多い。区隊史には雑誌「偕行」に連載された「今に生きる」の下川君の記事が転載されてある。 「36年間務めた会社を定年退職して6年、退職後運転免許を取得、なお暇を持て余し習い始めた能面うちと油絵は幸いよい師匠に恵まれ能面は平成元年5月、福岡で観世流の能楽に使用され、油絵は昨年創元会50周年記念展で初入選、現在今年の出品作品に取り組んでいる。長男、次男は医者として独立、家内と3男と3人暮らし。家内のお茶の送迎,また週2回病院のお手伝いと毎日忙しく過ごしている」(平成4年4月号)。 書くことのほか能のない私はネットの新聞を発行して今年で21年たつ。つい最近、友人に「何のために新聞を出すんだ」と意外な質問をされ「独断と偏見な意見を発表していささかでも民主主義の発展のために寄与したいからだ」ともっともらしく答えた。

「模範あり 老いの生き方 春うらら」悠々