銀座一丁目新聞

花ある風景(658)

川井孝輔

北斎とジャポニスム

国立西洋美術館に、「北斎とジャポニスム」を観て来た(昨年12月14日)。博物館・美術館は共に上野に在って、国立の冠が付いているものの、両者の由来・経営実態は明らかに異なることを聞いたので、まずは大雑把に調べて見た。博物館は広大な敷地に、本館・平成館・表慶館・東洋館・法隆寺宝物館・資料館と敷地の外に黒田記念館が在る。黒田記念館は明治画壇の大御所、黒田清輝の遺言で建てられたが、後年博物館に統合されている。博物館の実現は1872年、湯島聖堂で日本初の博覧会が開催され、翌年のウイーンでの万国博覧会が引き金となった。日本初の博覧会では「佐賀七賢人」の一人と言われ、後に博愛社を創設した佐野常民がその副総裁を務め、博覧会事務局が内務省管轄下の博物館になった。そしてイギリス留学中に、博物館事業の重要性を学んだ薩摩藩士の町田久成が博物館々長になる。1882年上野の寛永寺本坊跡地に新博物館が完成し明治天皇の行幸を得て、開館式が行われた。初期の博物館は、美術館・自然史博物館・動物園・図書館を含む総合文化施設であった。1889年「帝国博物館」と改称され、若くして現在の文部次官相当に栄進し、昭和6年迄存命の九鬼隆一が、総長の任に就いた。湯島聖堂から今の上野寛永寺跡地に落ち着く迄には幾多の変遷があった。また所轄官庁並びに名称の変遷はさらに複雑だったようで、1947年(昭和22年)新憲法公布の日に、「帝室博物館」から「国立博物館」に替わり、宮内省から文部省の所轄となって本来の姿になっている。さらに1952年文部省の機構変更により「東京国立博物館」と改称され、文部大臣を務めた安倍能成が館長に就任した。現在は京都・奈良・九州等の博物館同様、独立行政法人として分類され、公務員が運営して来たが、今は非公務員型に移行している。

一方美術館の方は設立の由来がまったく異なる。著名な実業家松方幸次郎(1865~1950)は、川崎造船所の社長を務めて居たが、財を成し1916年ロンドンに渡った時から、美術品の収集を始めた。千数百点にのぼる美術品は、日本に持ち帰って売却され散逸したが、尚ロンドンに約300 点、パリのロダン美術館に約400点が預けられて居た。ロンドン在のものは火事で焼失したが、パリ在のものは第二次大戦後、敵国資産としてフランス政府に接収されて仕舞った。これが「松方コレクション」と呼ばれるものである。サンフランシスコ平和条約の際、吉田首相が返還を要請した。フランス側は所有権を主張して、色々条件を付けて返還されることになる。結局フランスが「日本」に寄贈する形で事が運ばれたが、貴重な一部はその対象から外されたという。ともあれ、絵画308・彫刻62・書籍5点が「松方コレクション」として日本の地を踏むことが出来た。更にフランス側からそれらを、専用の美術館に展示して欲しいとの要請が有った。1959年(昭和32年)仏人「ル・コルビュジュ」の設計案を下に、弟子にあたる前川国男他で建てられたものが現在の美術館である。場所は寛永寺子院の凌雲院跡地であり、初代館長には美術評論に造詣深く、斯界に貢献した富永惣一(1902~1980)が就任した。本館が、一昨年世界文化遺産に登録されたことは周知の事である。

今回の美術展は、19世紀後半の日本美術が、西欧で新しい表現を求める芸術家たちを魅了した「ジャポニスム」と云う現象を、北斎と共に主題に置いている。1853年のペリー来航に続き、翌1854年の日米和親条約で開国されたが、欧米諸国との通商条約も次々に締結されて、長い鎖国の帳から解放されたのだった。そして開国前後10年位の間に、浮世絵・北斎の名が西洋に知られる様に成ったと言われる。かの有名な「シーボルト」が、長崎出島のオランダ商館付医官として1823年に来日して江戸に上った時、彼は北斎に会った形跡がある。彼は膨大な資料の中に「北斎漫画」をも含めて持ち帰り、欧州に日本を紹介して居るのだ。それをもって嚆矢としたとのくだりがあり、北斎の名は北斎漫画・浮世絵等を通じて西欧画壇に、開国以前から知られていたようである。

「ジャポニスム」とは日本風・日本化・日本びいき、等々と解釈してよいと思われるが、横文字に弱く本当の意味は分からない。唯当時其れまでの西洋絵画が聖書を元にしたものであり、人物・風景画共に、ある規範的な範囲内で描かれて居たらしい事が有る。それが鎖国の日本から齎された絵画には、くだけた庶民の有りの儘が有り、風景もパターンに囚われずに見たままを描き、一つの対象をあらゆる角度から観察した、連作と云う新機軸も見られて、当時の画家たちの眼を覚まし、彼等を虜にした模様である。これら一連の風潮を指して居ると思われるのだが。曾ってツアーでフランスに行き、睡蓮で有名なモネの生家を訪ねた時、記念館の壁に浮世絵が飾ってあるのを観たが、開国前後には浮世絵が、紙くず同様に梱包材料の一部になった話を仄聞していた。まさかモネの浮世絵が、梱包材料から得たものでは無いだろうが、浮世絵は前記の事情で可なり昔から、西欧画壇に知られていたと見てよいだろう。そのツアーで見聞した著名な印象派画家、モネ、セザンヌ、ゴッホの絵が見られたのは嬉しい。処で東洋の知られざる国日本の絵画が、一般に知られる様に成った経過には、後述する林忠正の様な革新的画商達に依る処もあった。そのような流の中に在って、北斎の「北斎漫画」・「富士三十六景」等は参考書として貴重な物だったらしい。北斎は1849年に89歳で亡くなっているが、開国以前から既に知られていた訳で、それ迄の型に嵌った西欧の画家たちは、東洋からの斬新な描き方に眼を奪われたのだった。特に北斎の「北斎漫画」は、人物・動植物等の姿態を素描で表し、彼の風景画はあくまでも見えた其の儘を自由に描き、同じ対象物をあらゆる角度からの連作として、「富士三十六景」のように表現している。これは其れまでの西欧の型に嵌った絵画からは想像できない新鮮なものとして、眼に映ったのだと云う。

此処に林忠正について記さねばならない。彼(1853~1906)は、明治の時代にフランスに在って活躍した美術商である。1878年に渡仏し、27年間を、オランダ・ベルギー・ドイツ・イギリス・アメリカ・中国等を巡り歩きながら、美術品の販売だけでなく、日本文化や美術品の紹介に努めた。各国博物館の日本美術品の整理にも協力している。1900年のパリ万国博覧会では、日本事務局の事務官長を務め、浮世絵からヒントを得た印象派の画家たちとも親交を結び、日本に彼等のコレクションを持ち帰って居る。彼はそれらを一堂に収めて展示する夢を抱いていたが、52 才の若さで亡くなったのは惜しまれる。日本と西欧画壇の架け橋的な仕事としての自覚で活躍したが、画商の立場だっただけに、毀誉褒貶を受けたとも言われる。今回の開催を心から喜んでいる一人に違い無い。

今回の美術展の特徴は、日本に関心を持った西欧著名画家の作品と、そのヒントになった北斎・他の作品とを並べて展示して有り、大変わかりやすい。更に、ガラス・陶器・机等の製品に、北斎・他の作品がヒントとして取り入れられているのを観て驚いたが、その作品自体も真に素晴らしいものであった。過日「すみだ北斎美術館」で観たものより内容が豊富で、しかも見応えが十分なのには感激した。尤も記憶力が頼り無く、すぐに忘失して仕舞うので、紹介するに当たっては、図鑑を頼りにせざるを得なかった。添付の写真は、総べて図鑑からスキャンしたものであり、当然本物との差は争えない。尚紙数にも制限が有るので、ほんの一部だが、聊かでも参考になれば幸いである。

写真(1)のフィッスルは、鎖国時に長崎商館員として江戸参府の機会が有ったらしい。1833年のものと有るので、今回の展示の中では最も古いものだろう。続いての(2)はご存じシーボルト著の「日本」に載せられたものである。(3)は北斎漫画の一部をあえて載せてみた。