銀座一丁目新聞

追悼録(661)

柳路夫

同期生永井一成君を偲ぶ

同期生で医者の永井一成君が亡くなった(1月11日・享年93歳)。葬儀は横浜・上大岡奉斎殿で家族葬によって行われた。同期生の指宿清秀君、涛川浩介君、霜田昭治君が参列した。式場には陸士時代の写真が展示され、お棺には第七高等学校の帽子が納められた。彼と最後に会ったのは昨年12月5日の同台経済懇話会の講演会で二言三言言葉を交わしただけであった。1年4回開かれるこの講演会に彼は必ず出席していた。勉強家であった。同期生の集まりである五輪の会にも毎回出席していた。沖縄2中(現・県立那覇高等学校)出身の永井君は戦後、医者の兄の進めで七高に入り東北大学医学部で学び医者の道に入る。彼が広尾病院で研修をうけている時、当時病院には同期生の小児科医荒木盛雄君(昭和24年東北大学医学部卒)がおり、親しく応対したという。航空士官学校生徒隊長であった立山武雄大佐(陸士31期)の息子さん立山尚武さん(陸士60期)と七高で一緒であったという。五輪の会ではこんな話を聞いた。徳富蘇峰の孫徳富太三郎さんは陸士58期生で彼の予科時代の指導生徒であったので病院の設計から建築まですべてお任せしたそうだ。徳富さんは戦後、関東学院の建築科を出て一級建築士の資格を取り、神奈川県逗子に建築事務所を開いておられた。その後、永井君が徳富さんの健康管理の相談役となり毎月健康診断していたという。

59期生の航空は操縦訓練を満州各地の8飛行場で行った。司令部偵察機操縦要員(司偵)の永井君は平安鎮飛行場であった。8飛行場のうち平安鎮は鎮東、鎮西とともに西満州に位置した。昭和20年4月20日伏木港を出港、清津をへて平安鎮に到着したのは4月27日であった。食べ物は内地に比べれば豊富で訓練に励んだ。5月15日から16日にかけて初めて空中を飛ぶ。使用機は4式初歩練習機(キ86ドイツユングマン練習機)出力100馬力、最大速度180km、巡航速度120km、全長6・61m。「赤とんぼ」と呼ばれていた。1ヵ月後、飛行時間16から18時間で単独飛行に移った。7月9日ごろ各中隊とも「速成班」と「一般班」とに分かれた。

同じ4区隊で同じく司偵であった川口久男君(平成19年4月21日死去)は当時の様子を俳句にする。

「太極拳大草原に秋立ぬ」

「草原の夜は音絶えて星の飛ぶ」

3区隊の司偵の田中長君は「訓練に明け暮れた。あの大草原に夕日が沈み、満天の星空に星が尾を引く。この1年5ヶ月が終生の絆となった」と追想する。

つまり腕の良いものが「速成班」で卒業後8月末の予定)後直ちに第一線で活用するためであった。特攻要員である。機種も「99式高等練習機」(爆撃は双練)であった。全飛行場で訓練中5名の殉職者を出した。平安鎮では7月24日日野宣也候補生と竹内清候補生が空中衝突で殉職した。沖縄はすでに占領され戦況は悪化、8月8日大詔奉戴日に帖佐宗親少佐(陸士50期)は「本土決戦を間近に迎え、59期生も近く卒業する。卒業即特攻なり、立派な特攻となり得るべく修練にはげむべし」と訓示した。記録によれば、沖縄特攻に使用された99式高等練習機は17機を数える。8月9日のソ連軍の満州侵攻により南満州への移動を命ぜられる。8月11日戸頃憲一少佐(陸士53期)指揮のもと24中隊は貨物自動車で白城子駅まで移動。幾多の苦難を経て博多に着いたのは8月22日であった。満州で操縦訓練を受けた航空士官学校の候補制は1200名にのぼる。敗戦の混乱の中、ほとんどの者が無事に復員できたのは奇跡というほかない。これは徳川好敏校長(中将・陸士15期)から「8月15日以降在満の士官候補生全員万難を排して修武台に帰還せよ」の命令により立山生徒隊長の巧みな指揮統率と適切な状況判断のおかげであった。永井君が戦後医者として地域医療に奉仕、患者さんから慕われたのも理由がないわけではない。心からご冥福をお祈りする。