安全地帯(562)
信濃 太郎
権現山物語
同期生永淵壽人君「防人の道標」を著す
こんな同期生もいる。永渕寿人君(鉄道・11中隊5区隊・平成24年10月12日死去・福岡県小郡市在住)が久留米一円の忠霊塔、慰霊碑、自衛隊の駐屯地・基地を訪ね、それを「防人の道標」(101ページ・写真120枚の冊子・平成21年1月発行)にまとめた。訪ねた市町村は24ヶ所、忠霊塔・慰霊碑は180余にのぼる。国の平和と安全に対する関心がとみに薄くなっている世相に「身を挺して国難にあたり戦死された方々、訓練で思い半ばで殉職された方の慰霊はどうなっているのか」との思いから永渕君の「慰霊の旅」が始まった。この冊子を送ってくれた同期生野俣明君(船舶・16中隊5区隊・北海道恵庭市在住)の話では戦後、永渕君は自衛隊に勤務されたと聞く。それにしても行動力のある同期生である。「防人の道標」をすべて紹介するわけにはいかないが、私が感じたままに記す。
たとえば河北エリア(11市町村)の東峰村では追悼行事を合併により平成20年から宝珠山地区と小石原地区合同で慰霊祭を2年に1回いずれかの地区で交互に実施とある。小石原地区の浄満寺の慰霊堂は野上義浄翁が寺内に建てたもの。野上さんは先の戦争に学徒動員で陸軍将校に、終戦で帰郷するや村内の戦死者(101柱)を弔うため献身的な活動の末昭和25年に建立と記す。朝倉市の志波神社(117柱・志波)は宝満宮境内に戦没者の神社として建立された。甘木地区には「特幹の碑」(甘木丸山公園内)がある。建立は平成10年6月。大刀洗陸軍飛行学校甘木生徒隊第1期特別幹部候補生により建立された。「特幹の歌」も刻まれている。甘木女子挺身隊の碑もある。建立は昭和59年9月。碑文に歌が刻まれている。
「くちなしの花咲く夕べ 静かなり
やめよたたかい 敵も味方も」
吉野ヶ里町の忠魂碑(東背振)には日清、日露戦役、大東亜戦争の戦没者のご芳名銅板が設置されている。なお昭和31年当時、村の財政が厳しく47万円の建設費30万円は村民の浄財によるとある。「大刀洗平和記念館」の本館は昭和62年10月建設。特攻基地であった大刀洗飛行場から出陣したパイロット及び各地から寄せられた遺品、備品を集めその事績を後世に伝えようと設けられた。ここには97式陸軍戦闘機(平成8年9月10日博多湾から引き揚げられたもの)が展示されてある。私の手元にある資料によれば97式戦闘機による沖縄特攻は48回も行われている。昭和20年3月29日沖縄・中基地を発進した「陸軍特攻誠第41飛行隊」の4機から同年6月11日知覧を発進した「陸軍特攻第215振武隊」の1機まで161の特攻機を数える。冊子には振武72飛行隊陸軍伍長荒木幸雄を紹介する。(略歴)昭和3年生まれ群馬県桐生市出身、少飛5期、昭和20年5月27日伍長で万世より出撃散華、戦死後4階級特進で陸軍少尉。遺書まである。時に17歳である。この日5月27日には知覧から「第431振武隊」5機、鹿屋から「神風特攻菊水白菊隊」20機がそれぞれ沖縄に出撃している。見学者年間約2万人。
鳥栖市の「サンメッセ鳥栖」には二人の特攻隊員が弾いたピアノが保存されている。昭和18年10月、目達原飛行場に大刀洗陸軍飛行学校目達原分校が開設された。多くの荒鷲が養成された。やがてここも特攻基地となる。二人の特攻隊員は鳥栖小学校に行き、今生の思い出にとベートーベンの「月光」を弾いた。ピアノは鳥栖市婦人会が寄贈したドイツ製のグランドピアノ「フッペル」であった。元飛行場正門に御影石の碑がある。「桜咲く 基地を飛びたち 南海に 散りし若鷲 しのぶ門柱」と刻まれている。
基山町には「いつくしみの塔」がある。大東亜戦争で命を落とした日本人、台湾、タイの身元不明者(遺骨収集)を祀ってある。タイ、ビルマ方面戦没者追悼委員会の遺骨収集が平成2年から6年間実施された。とりわけNPO慧燈(特定非営利活動法人)ではタイ、ミャンマーの貧困家庭の子供達の里親になって学資を支援する制度を設けている。
野中町の久留米競輪場内に「ドイツ兵俘虜慰霊碑」がある。説明板に次のように記されている。鎮魂の詩(ドイツ語)
「運命の力により、剣を奪われ
捕らわれの人となり 黄泉の国に去った汝ら」
第一次大戦大正3年10月から大正9年10月までの間全国に12ヶ所の俘虜収容所が設けられた。久留米収容所は多いときには1319名に達した。収容所で戦場の傷が元でなくなった者2名、病死9名、この人達を追悼するため慰霊碑をこの地に建立した」
この間、俘虜の生活のなかでは市民との音楽会、スポーツ大会、作品展示会なども行われた。ドイツ兵捕虜コンサートや花見(大正4年6月19日)の写真が添えられてある。
「戦車の碑」が國分町の陸上自衛隊久留米駐屯地内にある。大正4年にこの地に日本最初の戦車隊が誕生した。大牟田市の藤田天満宮内にある「被爆戦没者の碑」(建立平成7年8月)には昭和20年8月7日と18日の空襲(米機)でなくなった98名と戦没者35名計133名と朝鮮人の方と及び米兵が数名祀られている。
昭和20年4月7日戦艦大和で沖縄に出撃、敵の攻撃を受け大和と運命を共にした第2艦隊司令長官伊藤整一大将(海兵39期)の墓がみやま市にある。長男叡海軍大尉(海兵72期)も昭和20年4月28日沖縄伊江島上空の戦闘で戦死している。
永渕君は「当初予期もしなかった遺族の方、地域の方、市町村遺族会役員の方との出会いもあり、いろいろ話を承る内に感銘を受け続けた日々それは私にとって新しい心の財産をいただいた時でもあった」と最後に結ぶ。
いくら平和になったと言っても国のため命を捧げた英霊の武勲は永久に伝えてゆくのは当然であり、その御霊を慰霊すべきであるのは論を待たない。
永渕君はさらに続編を書いた(平成22年8月・発行・10ページ)。「はじめ」に永渕君はいう。「明治以来、身を挺して困難にあたり戦死下方々の慰霊顕彰は如何に行われて来たか、平成19年から2ヶ年筑後・佐賀東部地区、24ヶ市町村180の慰霊碑・忠魂碑と防人の館・自衛隊駐屯地7ヶ所を訪ね『防人の道標』を発行しました。この間感銘は深く、大きく、その後引き続き訪ね歩き、このたび近隣地域(7)と前編追加分(2)を含めて発行します」。
場所は1,福岡県護国神社、2,佐賀県護国神社、3,爆弾3勇士 軍神北川陸軍伍長、4,爆弾3勇士 軍神作江陸軍伍長、5,陸軍墓地、6,門司港出征記念の碑、7,硫黄島戦没者の碑、8,大刀洗平和記念館新館竣工(前編追加)、9,爆弾3勇士 軍神江下陸軍伍長の原型復元(前編追加)
今回もこの冊子は同期生の野俣明君が送ってくれた。永渕君とは平成21年10月、東京・浅草で開かれた全国大会ではじめて会い、その業績の素晴らしいことを前沢功君(工兵・14中隊3区隊)と共に激賞した。彼は「当然のことをしたまでです」と笑っていた。
福岡県護国神社は福岡市中央区六本松にある。英霊は11万5千余を祀る。ご祭神は福岡県関係の殉国の英霊であるが他県の多くが殉職自衛官も合祀しているのに合祀していない。佐賀県護国神社(佐賀市川原町)、ご祭神は佐賀の乱、西南の役、日清・日露戦争から大東亜戦争に至る佐賀県の殉国の英霊のほか自衛隊殉職者33名を含めて35599柱である。昭和36年4月には天皇、皇后両陛下がご親拝された。
軍神 北川丞陸軍伍長 木挽き職であった北川伍長は久留米工兵大隊18大隊に入隊昭和7年2月22日上海廟行鎮で戦死(当時21歳)、その銅像は三柱神社地内に忠魂碑と共にある。銅像は一時拠出されたが昭和43年5月長崎県佐々町老人クラブにより『平和の礎』として再建された。軍神北川丞記念館は実家に隣接してある。はじめは北川家により木造として建てられたが、昭和53年有志の協力により鉄筋の記念館として再建された。軍神の遺品、写真を始め賞状、感状葬儀の際の工兵18大隊長・村長野弔辞などが展示されている。
軍神 作江伊之助伍長 運送店に勤務していた作江伍長は久留米工兵18大隊に入隊、昭和7年2月22日上海廟行鎮で戦死(当時21歳)長崎県平戸市田助浦の天柱寺の墓地に『作江家の派か』と『陸軍伍長作江伊之助の派か』が昭和9年2月に建立された。田助浦を見渡す丘の上にある300坪余りのところに『忠烈作江伊之助君の碑』(昭和10年5月7日建立・陸軍大将植田謹書)がある。
門司港出征記念の碑 門司港駅西側岸壁にある。平成21年に竣工した。平成11年ごろから郷土の復員者から運動がすすめられ、遺族会、ライオンズクラブ、偕行会員、自衛隊隊友会,第40普通科連隊が募金に賛同、建設委員会も結成された。
碑文―ご存知ですか、先の大戦中この門司港岸壁から200万人の将兵が、はるか南方の戦線に、あるいは大陸の戦地へ赴いたことを・・・・そして半数の100万人の将兵は再びこの地を踏むことができなかったことを・・・・門司港の山河を日本最後の風景としてその目に焼き付け,遠く離れた戦線に向かった。多くの将兵を偲び、恒久平和を思う不戦の誓いを込めてここに「門司港出征記念の碑」を立てました。近代日本の黎明期から門司港の発展に、この港湾が重要な役割を果たし敵ましたが、この碑を忘れてはならない。
戦後65年日本人は平和に慣れ、戦争のあった過去を忘れてしまった。国のために戦い戦死された英霊を偲び顕彰するのは日本人として当然の務めである。その意味で永淵君の「防人の道標」は貴重な資料である。なお59期の鉄道兵は50名。59期生が入校まで士官学校出身の鉄道兵将校は120名前後に過ぎなかった。昭和20年8月23日長野県北佐久郡南御牧村に移駐し8月31日復員した。