銀座一丁目新聞

花ある風景(656)

相模 太郎

鶴岡八幡宮の大鳥居

鎌倉は鶴岡八幡宮より一直線に「若宮大路」と称する道(当初の幅約33m現在はより広い)が海岸に向け一直線に伸びている。頼朝の都市計画で奈良平城京、京都平安京に模して作った中心の大路である。東にある天台山――絹張山の線を基準に平行に作ったという説がある。

順は逆になるが正面境内入口に石の太鼓橋を背負って建つ朱塗りの鉄筋コンクリートの鳥居が「三の鳥居」という。大路の真ん中を通る一段高い参道が段葛(だんかずら)といい、長さ約800m、JR鎌倉駅への入口近くまであり、そこには朱塗りの鉄筋コンクリートの「二の鳥居」が傲然と大きな狛犬を控えさせて建つ。段葛の参道の幅は入口を広く、出口を狭く遠近法を用いている。参道の春は、桜、つつじと並木がすばらしい。段葛はむかし横須賀線ガードの先下馬交差点あたりまで延びていたようだ。

二の鳥居から1.5kmほど大路を海へ向かって南下すると「一の鳥居」がある。高さ約8.5m太さ92cmの堂々たる石造りで「浜の大鳥居」として国の重要文化財になっている。徳川四代将軍家綱が寄進したものだが、大正12年(1923)9月1日相模湾沖を震源とする関東大地震で鎌倉は震源に近く三基の鳥居とも倒壊、二、三の鳥居はコンクリートに復元したが、一の鳥居だけは、なるべく元の石材で忠実に復元したので痛々しい痕跡があるが寛文八年(1668)戊申八月十五日との刻みがある。

老生の平成30年元旦の初夢を披露しよう。残念ながら暮れより持病の腰痛がひどくなり、ついに七里ヶ浜より拝む初日の出を本年は断念。かわりに初夢に見た幻の鶴岡八幡宮大鳥居関連のことを書いて見よう。鎌倉在住でも史家でないので受け売り、想像ありはご容赦願い、鎌倉散歩のご参考になれば幸甚だ。

平成2年に、現在の鳥居の100mぐらい八幡よりの大路の西側に北条氏康寄進と思われる木の鳥居の柱痕跡が発掘され、浜の大鳥居として話題となった。現在は石で蓋をされ保存、説明の碑もある。何回か改築され、時代によって鳥居の位置はきまってはいなかった。「浜の大鳥居」と呼ばれるが、では「海の大鳥居」もあってもいいのではないか。図書館で見た明治35年「鎌倉大観」佐藤善治郎著によれば地図に由比ヶ浜の滑川河口近くの海上に「鳥居跡」と載っていて実際あったようなことが書いてある。また、室町時代の文明18年(1486)の廻国雑記には、由比ヶ浜で「朽ち残る鳥居の柱倒れて由比ヶ浜辺に立てる白波」とある。老生の恩師で鎌倉をこよなく愛した故奥富敬之先生(日本中世史)にそのような夢を聴いたことがあった。海岸線の移動、多くの大地震、津波、台風などにより地形は変わり、むかしの記録と照合したら面白い結果が出てくるだろうが、下って徳川光圀の「新編鎌倉志」(江戸時代)の地図にはもう消滅していたのか書かれていない。しかし、現存の一の鳥居の大路を南進、海上にもう一基、幻の「海の鳥居」あってもおかしくはない。じつは根拠がないでもない。平成15年4月2日の産経新聞に鎌倉観光協会が伝説の幻の鳥居を捜索のため、海中を発掘したところ、滑川河口から200mほど沖で2回調査の結果、人手の加わった75cm四方の石三個を確認しているとの記事があった。しかし、それ以来協会の報告はないようだ。

もともと、鶴岡八幡宮を造営した京育ちの源頼朝にはやはり憬れがある。奥州征伐で灰燼に帰した平泉の毛越寺(もうつうじ)―(藤原基衡の建立した理想郷の寺院で池に面し京都宇治の平等院を模したといわれる)をまねて敵味方供養のため、また、同道たる現存していないが鎌倉に現在国史跡の壮大な永福寺(ようふくじ)―(現在発掘整備されている)を建立する。奈良平城京、京都平安京の朱雀大路をまね、天台山―衣張山の線に平行して都市計画に若宮大路をつくる。そんな男だから遠浅の由比ヶ浜に、宿敵平清盛が建立した安芸の宮島厳島神社の海上大鳥居の向こうを張ってもおかしくない。老生、本年の初夢は、この歴史ロマン、海中に自然の大木を使って造立した波打ち寄せる堂々たる大鳥居だった。

相模湾沖を震源とする大正12年(1923)9月1日の関東大震災で鎌倉は、折から皇族二方の死を始め避暑に来ていた人々を含め甚大な被害を受け、神社仏閣もほとんど倒壊した。一の鳥居だけでも石造りを残そうと、不足分を元の産地備前犬島より取り寄せて旧状を保って造立した。では、二の鳥居と三の鳥居の残骸はというと、現在、三か所に残っている。まず八幡宮の宝物館前に源実朝が編んだ金槐和歌集にある「山はさけ 海はあせなむ世なりとも 君にふたごころ わがあらめやも」と彫られた5mほどの石柱が立っているのがその一部だ。次は鎌倉山分譲地の西端のロータリに大きく「鎌倉山」と彫られた5mほどの石の円柱があり横に寛文8年と刻まれている。さらに鎌倉山を鎌倉駅方向に上がり、途中七里ヶ浜分譲地に下りる細い一方通行の道の傍らに桜に囲まれひっそりとこれも5mほどの石の円柱が立っている。それには「爆弾三勇士顕勲碑」(上海事変(1932)で日本陸軍の工兵三兵士が爆薬筒を持って鉄条網破壊のため敵陣に進入し自爆、突破口を開き、突入を成功させた)として荒木貞夫大将の筆が刻まれていて、裏に寛文8年の年号が彫ってある痕跡が読める。後者の2基は鎌倉山開発の菅原通済の発起である。

(参考文献)鎌倉散歩 奥富孝之著 新人物往来社
鶴岡八幡宮 貫達人著 有隣堂
中世都市鎌倉 河野真知郎著 講談新書