安全地帯(560)
信濃 太郎
権現山物語
元旦の焼夷弾こそめでたけれ 無声
戦後73年目を迎え、23年前を偲ぶ。敗戦の年、昭和20年1月1日を追想する。神奈川県座間にあった陸軍士官学校に在学中で、歩兵科の士官候補生であった。1日午前零時、すでに起き出し、先輩たちが祭られている雄健神社に同期生とともに遥拝していた。サイレンの音を聞く。"空襲だ"と誰かが叫んだ。同期生長井五郎君(13中隊1区隊・歩兵)の記録によれば「探照灯の何本かが集まる中に,五機、八機のB-29がゴウゴウたる爆音を立てながら東へ飛んでゆく」とある。B-29が東京へ空襲に行くのだ。敵機は大山(神奈川県伊勢原市・秦野市・厚木市境にある標高1,252m)を目標にしてここから進路を東京へ取っていた。私たちはあわてて南校舎の14中隊の兵舎に戻った。午前8時から中隊兵舎前で遥拝式。姫田虎之助中隊長(陸士42期・平成15年4月20日死去・享年94歳)が訓示をした。姫田中隊長は予科区隊長(陸士49・51・53各期担当)。東京幼年学校生徒監(42期担当)と教育畑を務められたが山砲を富士山頂まで担がせたという厳しい一面もあった。この日の朝、出たのは四角な切り餅数個であった。陸士も民間と同じく食事は日ごとに貧しくなっていた。それだけ戦況が厳しかった。外出は許されたが私は兵舎にとどまった。
昭和20年3月硫黄島で米軍に日本軍より倍以上の損害を与え玉砕された栗林忠道中将(陸士19期)は1月21日付で妻・義井さんあてに手紙を出す。「なおもう一つ。墓地についてはこの前、豪徳寺などとも申したがあれはあの当時、東京に定住できる場合であったからで、今日としてはどこでもよい。殊にまた遺骨は帰らぬだろうから墓地についての問題は殆ど後回しでよいです。若し霊魂があるとしたら、御身はじめ子供たちの身辺に宿るのだから、居宅に祭ってくれれば十分です。(それに靖国神社もあるのだから)。それではどうかくれぐれも大切にして出来るだけ長生きをしてください。長い間ほんとによく仕えてくれた。ありがたく思っている」(梯久美子著「散るぞ悲しき」硫黄島総指揮官・栗林忠道・新潮社刊)
昭和20年元旦、確かに東京は米軍の空襲を受けた。徳川夢声の「夢声戦争日記」(中公文庫)は次のように記す。「一日(月曜・晴)零時5分、警報発令。私は午前中仕事があるので寝たまま.静枝専ら大活躍。3時ごろの高射砲と半鐘で起きる。敵機既に頭上を去り向こうの方で焼夷弾を落としている。大変な元旦なり。娘たち警報解除とともに八幡神社に初詣。
「元旦の焼夷弾こそめでたけれ」
「元暁の敵機頭上を爆進す」
除夜の鐘鳴らず、除夜のポ―。除夜の高射砲。九州で思ったほどイヤな元旦ではない。少しく眠りて7時ごろ起きる。屠蘇、雑煮。
「元朝の粛然として寒きかな」
「敵機去りし雲紅ゐに初日かな」
「初放送は七十二翁元気なり」(略)」
4月26日、東京・新橋演舞場で6代目尾上菊五郎、扮装のまま客席に向かい「空襲で演舞場が焼けたら私は野天でもお芝居をやらせてもらいます。私の死に場所は舞台以外にございません」と訴え喝采を浴びる(松竹70年史)。演目は『鮨屋』『棒しばり』『東海道膝栗毛・赤坂』の3本。菊五郎はいつ死んでもいい様にと辞世の句を読む。「まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで」
「役者の気概すざまし初日の出」悠々
「書くことは生きることなり初日の出」。悠々