花ある風景(655)
並木 徹
元NHKの羽根章夫さんの「スマホを捨てよ街へ出よう」
羽根章夫さんの著書「スマホを捨てよ街へ出よう」(ユーフォーブックス刊・2017年12月20日発行)を読む。80歳、NHKを中途退社独立して30年たつ。在社中派閥に属せず、一匹狼であった。私とよく似ており共感するところが少なからずあった。「ほんとうに大事なことはスマホの小さな画面にはないぞ」は重要な指摘だ。「新聞記者は足で書け」といわれた。「現場から物を聞け」とも教えられた。羽根さんはよく考え積極的に行動する人のようである。
NHK入社は昭和36年。横浜支局から東京の教育部・芸能部を経て大阪の芸能部へ左遷される。標準語を使って仲間から茶化されるが関西芸人の心意気を知る。私は昭和38年8月、翌年の10月に東京五輪が開かれるというのに大阪社会部デスクに転勤になった。挨拶の際「私は慣用句が嫌いなので"よろしくお願いします"は言いません」といったのでしばらくの間、部員たちが協力しなかった。私は自分で企画を立て各支局へ注文して記事を作った。そのうち私の気心もわかってくれて大いに協力してくれた。
羽根さんは4年後東京の芸能部に戻る。みんなが駄目だろうというのに「ビッグショー」(昭和50年9月放送)に石原裕次郎を出演させる。裕次郎さんはれ義正しく気配りの人であったと語る。この際にゲストは裕次郎の指名で奈良岡朋子さんであった。
今度は芸能部から営業局亀戸営業所へまた左遷される。上司に「何か事件でも起こしたのか。どうしてこんなに評価が低いのだ」といわれる。羽根さんは腐らず常に前向きで働き、受信料の徴収率を大いにあげた。私も部員時代の評価は「独断偏見にして協調性なし」といわれた。お蔭で国内支局長を経験させてもらえなかった。メキシコオリンッピク(臨時メキシコ支局・昭和43年9月)の時。時の部長に「部下の使い方もうまく、名支局長になって見せる」と口説き落としたことがある。
平成元年に亡くなった美空ひばりがラジオを熟知していたと激賞する。羽根さんはテレビでもラジオでも何回も番組担当者としてひばり付き合っている。デレクターがひばりに「自分のバンドも連れてきているしそんなに真剣にリハーサルをしなくていいよ」といったところひばりが答えた。「ラジオをよく知っているラジオでははっきりうたわないとダメ。だから音合わせはちゃんとやるわ。テレビだったら『悲しい酒』を歌うときに、私が涙でも流したら、お客さんは感動してくれる。演技ができるのよ。でもラジオはそういかない。言葉のひとことひとことで感動させないといけないの」。ひばりのような歌手はもう生まれないだろう。美輪明宏、長谷川一夫、勝新、伊丹十三、井上ひさしなど華麗な人々が登場する。それぞれに話は面白い。
海外特集番組に担当者に抜擢されインド、スリランカ、サウジアラビア、エジプト、アメリカに80日間の番組制作の旅をする。この大抜擢に嫉妬の嵐が起きる。私も上司には恵まれた。大型連載企画の立案をまかされたり、大事件の責任者にされたりした。
羽根さんは60年定年の10年も前、50歳の時、大阪転勤を言われて退職する。「何でもやってみなきゃわからない」というタイプ。先輩からの声もかかって新しい会社に入る。此処に3年居て制作会社を作る。80歳の今も現場で働き苦言を呈する。会議は短くパソコン持ち込み禁止。自分を磨け、雑談を聞き逃すな、人に媚びへつらうな…珠玉のような言葉がつながる。
私の経験を言えば、一匹狼の生き方は常に自分を磨くことだ。本を読むこと、映画・美術展・音楽会には足を運ぶこと、それを実行していると今の時代では数年たてばその差がはっきりする。この本はそんなことを教えてくれる。