銀座一丁目新聞

茶説

歴史に遊ぶ 初めての遣米使節

 牧念人 悠々

「歴史を忘れたものはしっぺ返しを食らう」という。まあ、理屈をこねずに今年も“歴史に遊ぶ"気持ちで過ごしたい。2016年(平成28年)5月13日、米国ワシントン海軍工廠内に「万延元年遣米使節記念銘板」が建立された。立てたのは「使節の子孫の会」(平成28年1月設立・会長村垣孝さん)であった。使節の訪米は1860年(万延元年)だから156年もたつ。その使節の副使・村垣淡路守範正の玄孫・宮原真理子さんから話を聞く機会があった。

久しぶりに友人霜田昭治君に誘われた藤沢市の善行雑学大学の「万延元年遣米使節」の講演会であった(昨年12月17日・善行公民館ホール)。使節の目的は日米修好条約を結んだ(1858年3月締結)米国へ批准書交換のためであった。使節の数77名。1860年1月8日(旧暦)米国のフリーゲート艦ポーハタン(艦長ジョージ・ピアソン大佐・2415トン)で出発する。範正の詠んだ歌二首を掲げる。

「竹芝の浦波遠く漕ぎ出でて世に珍しき船出なりけり」
「立帰り向こう折こそ契らめや不二の高根に別れ行く空」

賄い方として乗船した加藤素毛(1825年-1879年)によれば、乗組員たちは皆親切であった。こちらから持ち込んだ「沢庵をくさい」といって閉口されたと日記に書く。素毛は俳人、歌人として知られる。使節には賄方として随行、35歳であった。

通訳としてオランダ語通訳の名村五八郎、立石得十郎、それに立石の甥・17歳の米田為八(養子となって立石斧次郎と名乗る)が無給通訳であった。為八を得十郎が「タメ、タメ」と呼ぶのでアメリカの乗組員たちが「トミー」と呼ぶほど人気者になった。アメリカの将校たちとの会話を通じて英会話が上達、米国滞在中、使節のスポークスマンを務めるようまでになった。米国の新聞にイラスト付きで報道されたこともあって当時、トミーを織り込んだ「トミーポルカ」という歌がアメリカで流行したという(「日本の歴史12・「幕末と維新」・研秀出版刊」)。

「Dedicated To Tateishi  Onogero or T0mmy of the Japanese Embassy “Tommy Polka" Wives and maids by across Are flocking round that charming Little man, Known as  Tommy、witty Tommy. Yellow Tommy,From Japan.
(意味)「通りがかりの奥さんたちも娘さんたちも可愛い小さいな少年のまわりに群がってくるトミ―と呼ばれる利口な黄色い日本から来た少年のまわりに」

一行は途中で暴風雨に会い、石炭を使い果しハワイ(当時は独立国)のホノルルに寄港する(2月27日)。滞在中カメハメハ4世と謁見。サンフランシスコに着いたのは3月8日。ここで咸臨丸(艦長勝海舟・620トン・オランダ建造。乗組員福沢諭吉ら96名)と会う。咸臨丸は護衛艦ということで訓練も兼ねていた。パナマを経てワシントンには3月25日に到着した。ウイラード・ホテルに滞在する。このホテルは建て直されて今は11階のホテルとして残っている。翌26日、ジョージ・ブキャナン大統領(15代・1857年から1861年)に謁見、批准書を手渡す。プレゼントとして馬具と火鉢を贈る(スミソニアン博物館所蔵)。

範正の歌二首
「ゑみしらもあふぎてぞ見よ東なる我が日本の国の光を」
「おろかなる身をも忘てけふのかくほこりがほなる日本の臣」

ワシントンには25日間滞在する。この間スミソニアン博物館、国会議事堂、ワシントン海軍工廠、アメリカ海軍天文台を訪れる。 一行は米国で大歓迎を受ける。ちょんまげ姿に二本の刀を腰にさしているのだから珍しがられるのは当然であろう。ニュヨークの歓迎パーレードには50万人の人が集まり、詩人ホィツトマンも一行を目撃した。この地で随員が日本に開国を迫ったマシュー・ペリー提督(1858年3月4日死去・63歳)の遺族の邸宅を訪問した。日本からペリーが連れ帰った子犬が随員を見て非常になついたという。遺族は日本の犬までが情けが深いと感心したと伝えられている。4月16日、再度大統領と謁見、正使新見豊前守正興、副使村垣淡路守範正,監察小栗豊後守忠順には金メダル、随員には銀メダル.従者には銅メダルをそれぞれ贈られた。範正の随員の野々村忠実はこんな記録を残す。

 「総テ此国ノ人質甚寛浴ニシテ正直信心、他邦ノ人ヲ見テ嘲ケリアナトル事無シ、一見ノ者ニモ信実シ尽シ、気甚タ長シ、其様子我山野人ノ都下ヲ未タ見ザルモノノ如シ、英人ハ妬多ク、人質甚悪ク、動スレハアナドリ偽リ無礼多ク、我朝人此ニ来ルヲ妬ヲ嫌フ、故ニ華盛頓風説書有リ、米人我朝人ノ手ヲ携ヘ歩ム、英人傍ニ有テ羨ミ泣ク処ノ画ヲ出セリ」。

米国に別れを告げるのは5月12日。 米艦「ナイアガラ」号で北大西洋を横断ポルトガル領コンゴのロアンダ を経てバタビアから香港に着いたのは9月9日であった。

帰心矢の如し。範正の歌一首。
「唐の島高き夕月夜けふはことさらにおもふふるさと」

その昔(753年)、遣唐使として中国を訪れたまま在唐54年、唐土に没した安倍仲麿の歌を思い出す。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」。安倍仲麿の歌から1107年たっても日本人の異郷で月を見て故郷を思う気持ちは全く変わらない。 江戸到着はそれより19日後であった。

「和田の原朝日をさしてかぎりなくはしり尽くせば向かうふじの根」(範正)

時代は明治維新となり米欧の文物を取り入れて学び、日本はひたすら「富国強兵」を目指す。柔軟な日本人は「和魂洋才」で委細万端を処理し列強の仲間入りしてゆく…