銀座一丁目新聞

追悼録(655)

柳路夫

群馬県山岳連盟会長であった星野光さんを偲ぶ

群馬県山岳連盟会長であった星野光さんを偲ぶ

24年前の1994年(平成6年)1月1日のスポニチの一面は群馬県山岳連盟登山隊が初めて冬季に南西壁からサガルマータ《ヒマラヤ・8848m》登頂した写真で埋められた。そのそばに阿久悠さんの「きっとことしは」の詩があった。

「思いうかべてみるがいい  それがどれほどすごいことか  8848メートル  サガルマータの頂上で  天の歌を聞き  地の声を心によみがえらせることが」

この時の群馬県山岳連盟会長は星野光さんであった。その星野さんが昨年12月19日亡くなった。享年86歳であった。心かご冥福をお祈りする。

星野さんとの出会いは1990年(平成2年)4月10日、スポニチ前橋支局開設披露パーテ―の席上であった。初対面の星野会長から「サガルマータ登山を応援してほしい」と頼まれた。私は即座に引き受けた。その年の12月、星野総隊長、八木原圀明隊長ら隊員16名で登頂を試みた。天候が登山隊の前進を阻み翌年2月までの71日間の苦闘の末、撤退を余儀なくされた。

スポニチ50年史によれば、3月20日(1991年)、星野総隊長、八木原隊長,尾形好雄副隊長、名塚秀二登攀隊長が重い足取りで越中島のスポニチ本社を訪れた。敗退の報告と挨拶のためであった。伏し目がちに社長の前に並んだ時、社長はいきなりこう切り出した。「またやるんでしょ。スポニチは成功するまで応援しますよ」星野らははっと顔をあげた。思いもよらない言葉であったという。

雪辱を期して群馬登山隊は1993年12月、本番前に8201mのチョー・オューで高所訓練をしてサガルマータに挑んだ。遂に尾形好雄を隊長とする登攀隊の第一陣が12月18日15時20分に頂上に成功、スポニチの三色旗を山頂に翻えした。22日まで隊員7人のうち6人までが登頂に成功した。このニュースはたちまち世界中に伝えられた。

当時、登頂成功を伝えるスポニチの一面(12月22日)に「不屈の快挙、魔峰を征服」とあった。私は編集局長を呼んで「今後は征服の言葉を使わずに登頂成功を使え」と伝えた。"征服“は山を愛するもの取ってあまりにも不遜であるからである。

その後、登攀隊長の尾形さんをスポニチの事業本部へ迎えたのも星野さんのお蔭である。1995年1月、星野さんが「尾形が日本ヒマラヤ協会の専従をはなれてゆくところがないから何とかしてください」と頼まれた。快挙を成し遂げた男は何かを持っていると即座に採用を決めた。思った通りゴルフイベントからスポニチ創刊記念事業「カラコルム・ハットトリック」の企画立案から事業実施までやっていただき成果を上げた。さらに「スポニチ登山学校」設立までに発展した(1995年12月開校から2008年8月閉校。12期生まで)。 星野さんは群馬県ゴルフ連盟会長でもあった。腕前はシングルであった。しばしばともにゴルフを楽しんだ。性格は率直にして豪胆であった。交友も広くそれが群馬山岳連盟の活動を長く支えた。群馬県は惜しい人物を亡くした。

阿久悠さんの詩は最後をこう締めくくる。

「最後の一歩が  希望そのものであったように  きっとことしは  きっとことしは  それぞれの人の胸に  快挙の旗が立てられる」