銀座一丁目新聞

花ある風景(654)

並木 徹

山本次能さんの歌に感あり

歌誌「歌と観照」(2017年11月)が友人から送られてきた。岐阜・山本次能さんの歌が6首あった。それに「山本さんは陸士60期生です」と添え書きがあった。もちろん友人は私が陸士59期生であるのを知ってのことだ。6首の歌はぐさりと胸に刺さった。59期生は昭和18年4月予科に入校、60期生は翌年の3月入校である。昭和20年8月15日の敗戦の日、歩兵の59期生は西富士で野営演習中であった。60期生の山本さんもその年の7月予科を卒業、歩兵の士官候補生として本科に入校された。その時、歩兵を含めた59期の地上兵科はすでに長野県佐久地区に疎開。60期生の地上兵科も北佐久の田中及び浅間高原に疎開した。59期生と60期生が一緒であったのは予科時代で期間は昭和19年3月から10月の8ヶ月に過ぎない。だが埼玉県朝霞の振武台上でともに死を覚悟して練武の道にいそしんだ仲間意識はなかなか捨てがたい。

「敗戦の記念日またも巡りきぬ戦いの惨いまも瞼に」

8月15日には毎年、同期生とともに靖国神社に参拝する。航空に進んだ同期生13人も祭られている。昨年も4人の同期生と参拝した。豪雨であった。それでも参拝者は列をなしていた。ここ数年来若者たちの姿が目につくようになった。

「土黒き武蔵野に伏し匍匐せし十九の春を今も忘れず」

私たちも匍匐はよくやらせられた。本科では1週間、夜間演習が続き、挺身斬りこみで匍匐前進ばかりであった。風呂にも入れず武器の手入れも思うにまかせなかった。我慢強くなった。

心優しき友人は山本さんの出された歌集の一つ「紫緊めて」(1996年12月13日発行)を送ってきてくれた。心に響く歌がたくさんあった。教育者として過ごされてきた人だけに人や自然への愛情があふれ出ている。小学校6年生の時「雪の夜や兵士に送る慰問文」で一等賞になったというからすぐれた"歌心“を少年時代から持っておられたのであろう。

「かぎろいの立つ野に出でて筆の穂に揖斐の川面の光を掬う」

万葉の世界だ。万葉集の面白さを教えていただいたのは陸士53期の西宮正泰区隊長である。「川面の光を掬う」は絶妙である。伊藤左千夫は柿本人麻呂を「人麻呂の天才は泰平を歌うに適した積極的詩人の方」と評した。山本さんもそのような方のようである。「友ありて歌集来る冬最中」悠々

「ゲルニカの下絵二百五十点ピカソの執念ひたに畏るる」

ピカソは1973年4月8日91歳でなくなる。縦3.5m、横7.8mの壁画「ゲルニカ」は55歳の時の作品。多彩な女性遍歴を持つ画家は天才にしてキュピスムの創始者。「創造のエゴイスト」と評した人もいる。その絵には脱帽のほかない。

「たやすく史観変え得ぬ若かりし思いはいずこ戦後はるけし」

山本さんは先の歌誌「歌と観照」でも「散華の文字胸に抱きて征きし日よ今や戦争放棄危ぶむ」と詠っているから「憲法9条護持」なのであろう。同期生にも改憲反対者がすくなからずいる。私は「不戦の誓い」を胸に秘め「自分の国を自分で守る気概のない国は滅びる」の信念のもとに国軍を設けることを望む。

「逆光に花びら散りて光つつひとひら唇に触れゆくあわれ」

源氏物語は「もののあわれ」を語ったものだと教えてくれたのは亡き作家の渡辺淳一さんであった。遅まきながら源氏物語を読み直した。日本人にはもののあわれの感性が失われつつあるように思える。

「ちちははの墓も古りつつたそがるる重き紫紺の山に抱かれて」
「ちち母の眠れる山は静かなり紫緊めて今暮れかかる」

私の母は昭和23年11月23日亡くなった。享年60歳。父は昭和53年1月14日死去。89歳であった。墓は長野県下伊那郡喬木村の山の中にある。ふもとの阿島から歩いて30分ぐらいかかる。此処に住んでいたすぐ上の兄が数年前になくなってからゆく機会がない。親不孝をしている。

「地下道に空缶ひとつ転ぶ夜はいたく人のいのち思えり」

空缶に人の命を思う感性・思いやりが残念ながら私にはない。大病したことがないためか、「天上天下唯我独尊」と思い込んでいるせいか、自分ながら憐れだと思う。

「菊池寛死者は老いずと言い残す 桜木の下の母若々し」

山本さんの母は昭和19年11月3日、45歳の若さで亡くなった。予科在学中でしかも演習中であった。その際、歌を湧くように詠めたという。「演習の最中に母の訃ききぬ伏す武蔵野の土の黑さよ」

これが山本さんの歌心の開花した出発の歌であったという。

菊池寛には「菊池寛―話の屑籠と半自伝」(文芸春秋刊)がある(昭和23年3月6日死去・享年60歳)。書く材料に困ると私はこの本を開き、ヒントを得るようにしている。「菊池寛老いず知恵得る冬日和」悠々

「万両の朱のつぶら実ひそやかに明けゆく年の光を集む」

いま、我が家の千両が小さい赤い実をいっぱいつけている。このような歌がさらさらと出てくるのが羨ましい。絵が上手なせいであろう。せめて「千両の実さる人ぞ恋しき」とでも詠んでおこう。

「しみじみと観る道標の色褪せて生の道とも死の道とも」

山本さんは死を達観されたようなところがある。私は死を人生の通過点と思いこもうとしている。人間は死後も自己完結を目指して旅を続けるからである。
吾が友人は心配りが出来るお人である。私の為に歌集を頼んだ山本さんの手紙のコピーまで添えられてあった。友人はいい人との縁をつないでくれた。感謝のほかない。