銀座一丁目新聞

安全地帯(557)

信濃 太郎

権現山物語

航空に進んだ59期生は昭和20年3月24日、第2生徒隊が編成された。第21中隊から第27中隊までの7ヶ中隊である。このうち第26中隊は航空整備,第27中隊は航空通信で、それぞれ修武台に残留、他の1200名は狭山、高萩、板戸、館林の各飛行場へ分散、操縦訓練をするため4月下旬伏木港から朝鮮の羅津を経て満州の飛行場へ散って行った。当時の満州での編成は次の通りである。

21中隊(飛龍隊・戦闘・所在地鎮東‣鎮西)22中隊(風雲隊・襲撃・杏樹》23中隊(蒼龍隊・重爆・戦闘・温春。東京城)24中隊(翼源隊・司偵・戦闘・平安鎮》25中隊(虎塼隊・戦闘・海浪・海林)28中隊(航法・通信。海浪・後に新設)。操縦はユングマン(4式基本練習機キ86)にはじまり操縦の優れたものは99式高等練習機に移った。だが8月9日ソ連軍の満州侵攻により中断、日本へ帰国する破目になった。ソ連の国境の近かった杏樹飛行場の同期生たちの中にはソ連に抑留されるものがでた(40名を超える)。ここに紹介するのは翼源隊の話である。

翼源隊(第24中隊)の中隊長、帖佐宗親さん(陸士50期)の七回忌法要が鹿児島市で行われた(平成20年・11月24日)。法要出席者は15人、供花者は36人を数えた。地上兵科の私でも帖佐中隊長の高い人望を折に触れて聞ており、うらやましく思っていた。平成14年12月86歳でなくなられた。今なお当時の部下であった同期生達がその人徳を慕うのが素晴らしい。同期生たちは帖佐中隊長を「誠実、情誼、気配り、統率力」兼備された人とも言い、また「泰然自若、慈愛のまなざし、燃ゆる愛国心」を持つ人と評する。とりわけ同期生達は満州・平安鎮での操縦訓練中に敗戦、ソ連軍侵攻を前に帖佐中隊長の指揮よろしきを得て全員無事、復員してきた貴重な経験を持つ。その絆はまことに固い。

鹿児島市内の菩提寺で行われた7回忌法要には卒寿を迎えられた夫人・久子さんも参列、全国から集まった15人の同期生(亡くなった同期生の夫人も1人参加)は亡き帖佐中隊長のご冥福と遺徳をしのんだ。法要に出席した田中長君から借りた「帖佐中隊長追悼録」によると、昭和59年10月の熊本での「翼源会」で帖佐中隊長の提案によって中国残留孤児への援護活動に乗り出し、65万円の募金をしたほか、昭和62年7月には白城地区賓館に残留孤児と養父母を招いて会食している。世話人宇井豊君(平成26年12月18日死去)に話を聞くと、当時操縦訓練をしていた平安鎮飛行場には200名の同期生のほか整備兵なども含めれば500人ぐらいいた。中隊長は最後まで居残り後始末をされた。最後の訓辞で「万一のことがあれば帖佐は武人として立派に死んでいったと思ってくれ」と挨拶されたという。戸頃憲一区隊長(54期・平成20年・11月25日死去)が指揮して全員を白城子までトラックで、その後は列車で輸送して無事帰国、8月の下旬、埼玉県所沢の航空士官学校に復員した。

帖佐中隊長の教えを受けた中山毅彦君は思い出話をしてくれた。昭和20年4月、満州へ操縦の訓練に行く寸前、航空士官学校館林分校にいた頃。父が軍刀とお金500円を持って面会にきた。その時あいにく無断外出をして兵舎には居なかった。夜遅く帰隊すると「戸頃週番士官が探していたぞ」と同期生が言うのでおそるおそる週番士官室へ行くと、なんと父親が待っていた。その頃空襲で東武線が不通であったので父親は自転車をこいで館林まできた。話もそこそこに父親を帰したが、一向におとがめがなかった。当然無断外出がばれて戸頃区隊長から帖佐中隊長へ報告がされているはずであった。中山君の日頃の行いが良かったのか、それとも帖佐中隊長の温情によるものか、中山君は「帖佐さんは偉かった」と言っていた。軍刀とお金はそのまま持って復員した。戦後中山君は戸頃区隊長に会うごとに「その節は有り難うございました」と頭を下げるという。

中山君については次のようなエピソードもある。中山君が四国電力燃料部長時代、豪州のWambo社と石炭輸入契約をした。Wambo社の会長の母方の曽祖父が若き日にフランスに留学した上原勇作元帥と友情を深めたことがあり、訪日の際、その孫である、中山君と同期生の上原尚作君と劇的な対面を果たしたという話である。

上原勇作元帥は士官生徒第3期生(卒業は明治12年12月・卒業生96名)。若い時、野津道貫大将のもとへ書生で入り、陸軍を志した。工兵科の恩賜である。同期生に日露戦争で騎兵旅団長として活躍した秋山好古がいる。陸大(明治16年に開校)がなかったので1881年(明治14年)フランスへ留学、フランス陸軍に学び、工兵の近代化に貢献した。日露戦争では野津道貫大将が軍司令官の第4軍の参謀長を務めた。陸軍大臣、教育総監、参謀総長と陸軍三長官を経験している。子爵。夫人は野津大将の娘である。

社内報「まるべに」(昭和61年=1986・12月号・NO403)によると、丸紅の電力用炭部では豪州のWambo炭を年間90万トン輸入し四国電力を始め電力各社に納入している。昭和61年8月、豪州を訪問したエネルギー第二本部長がWambo社のペアトロ会長から数葉の写真を見せられた。写真に写っていたのはフランスのグルノーブルに砲術の研究のために留学されていた若き日の上原勇作元帥であった。ペアトロ会長はその年の1月、フランス石炭公社から派遣された方であった。フランス名門の出身で母方の曽祖父シュバィッアーが留学に来ていた上原元帥(当時25歳)と親交を結び、友情のしるしとしてその写真が大切に保管されていたという。ペアトロ会長は出来たら上原元帥のご子孫にお会いしたい希望を述べられた。調べた結果、上原元帥の孫・上原尚作君(航空爆撃・23中隊2区隊・温春)の居所が分かった。

その年の10月はじめ、丸紅16偕特別食堂でペアトロ会長と上原尚作君との一世紀を経た「日仏親善・友情の夕食会」が開かれた。二人が感激の握手を交わしたことは言うまでもない。夕食会の主催者は丸紅のエネルギー本部長、竹村豊専務であった。竹村専務(12中隊4区隊・山砲)は中山毅彦君、上原尚作君と陸士の同期生である。当時中山君は四国電力取締役・東京支社長であった。戦後41年、このころ同期生は商社、電力など各方面で日本再建のためにひたすらに活躍していたのをかいま見ることができる。

亡くなった宇井豊君の追悼録を此処に紹介する。

医者の宇井豊君は平成25年6月手術をしてよくなったとご家族が思っていた処の思いがけない死であった。葬儀には陸士の同期生、医者仲間、患者さんたち多数参列した。靖国神社からの花輪もあった。宇井君は靖国神社とは縁が深い。靖国神社境内にある「鎮霊社」の御霊祭りには熱心であった。平成24年12月、安倍晋三首相が「鎮霊社」を初めて参拝した。新聞は一行も報じなかった。誘われて私は御魂祭りに参列したことがある(平成24年年7月13日)。参列者わずか10人と少なかった。神官6人が執り行う品格ある神事であった。ここの祭神は1853年(嘉永6年)ペリー来航以来の、戦争で倒れた日本人だけでなく外国人も祭祀されている。西郷隆盛も白虎隊員も含まれる。東京大空襲で犠牲になられた方々も祭られている。昭和40年(1965年))7月、当時の宮司筑波藤麿さんの発案で建立され、毎年7月13日を例祭としている。

宇井君とは数年前に同期生会の幹事となった関係で顔見知りとなり、小冊子「八紘一宇」の責任者と知った。宇井君は「八紘一宇」の碑を世界と国内に建てるのを念願としていた。「八紘一宇」という言葉は「日本書紀にある。「六合(ロクゴウ)を兼ねて以て都を開き、アメノシタ(八紘)を掩(オオ)いて宇(イエ)となす」とある。道義による世界一家の実現を期することである。世界は一つの家という意味である。英語で言えば「UNIVERSAL BROTHER HOME」である。この言葉を広めたのは大正期(大正3年11月)に国柱会を起こした田中智学である。この国柱会に石原莞爾(陸士21期・中将)が入信している。石原はこの言葉を日本建国の理想を現す言葉として使っていた。

宇井君は各国にある日本の大使館、国内では公共の土地、全国にある52ヶ所の護国神社、8万社ある神社の境内にそれぞれ「八紘一宇」の碑を建立したいという。日本の平和の意志を世界に訴えんとする志であった。人のため世のために己を尽くすことにことさらに熱心な友人であった。