銀座一丁目新聞

花ある風景(652)

並木 徹

能「三輪」と「国栖」を見る

スポニチで一緒に仕事をした宮前和子さんに誘われ友人の高尾義彦君と東京観世会の能「三輪」、狂言「腹不立」、能「国栖」などを見る(11月25日・東京銀座・観世能楽堂)。宮前さんは謡曲を習い、小早川修の能公演をよく観ているという。この日、全席自由席であったが私たちのために正面舞台近くの良い席を確保していただく。480席は満員であった。同期生の中には舞台に立つぐらい上手な者もいる。私は全く不案内である。高尾君は「能舞台柳は青く角田川」と句集に詠み、知り合いに能楽師もいる。

「三輪」。舞台正面の奥に笛・小鼓・大鼓二人の後見が、右側に地謡の8人2列でそれぞれ並ぶ。(後見が杉小屋の作り物を据える)シテ・下平克宏。ワキ・福王和幸。笛の独奏。響きがいい。大和国三輪山の近くに庵を結ぶ玄賓が登場。ワキ「さてもこの程何処ともなく女性一人、毎日樒(しきみ)閼伽の水をくみて来り候、今日も来りて候はば、いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候」。

大鼓・小鼓・笛の演奏に里女が登場。その所作、ゆっくりにして優雅。シテ「げにや老少不定とて世のなかなかに身は残り、幾春秋をか送りけん、浅ましやなす事なく徒らに、憂き年月を三輪の里に、住居する女にて候」

夏目漱石は「草枕」(明治39年9月『新小説』で発表)の中で能のありがたみを「芸術という着物を何枚も着せて世の中にあるまじき悠長な振る舞いをするからである」と指摘する。この演目も"世の中にあるまじき"ものが出てくる。

里女は秋冷に玄賓に衣一枚を乞う。玄賓は衣を与えて住処を尋ねる。女は三輪山の近く、杉の木が立っているのが目印ですと言い、姿を消す。玄賓がその場所を尋ねると杉木立ばかりであった。杉に女に与えた衣が懸り、金色の文字が刻されている。「三つの輪は清く浄きぞ唐衣くると思ふな取ると思はじ」。

里女は三輪明神の化身であった。生きとし生けるものすべてを救おうとの悲願ゆえの方便であった。天照大神の岩戸伝説が神楽の起源でもあったとも地謡は謡う。最後は三輪明神の神楽で終わる。舞台で繰り広げられるのは幻想的な舞いである。地謡「思へば伊勢と三輪の神,思へば伊勢と三輪の神、一体分神の御事、今更何と磐座(いわくら)や、その関の戸の夜も明け、かくもありがたき夢の告げ、覚むるや名残なるらん、覚むるや名残なるらん」。

瞑想して聞く。能は神と人との精神的つながりを舞い、歌、所作で表現したもの。何となくわかったような気がしてきた。

芭蕉は能の謡から大きな影響を受けたといわれる。江戸時代武士階級から俳諧師に転じた芭蕉が夢幻的世界を歌う謡にひきつけられるものがあったのかもしれない。芭蕉よりも年上の西山宗因には能「田村」からとった「郭公いかに鬼神もたしかに聞け」の句がある。「田村」は坂上田村麻呂が鈴鹿山で鬼退治する時の謡である(安田登著「能」・新潮新書)。

ついで能「国栖」。漁翁・蔵王権現・大松洋一、姥・武田友志、天女・酒井音隆、王・清水義久。私にはなじみの“万葉の世界"である。

大友皇子に追われ、都を出た清見原天皇(大海人皇子)は、供の者に守られて吉野の山中、国栖まで逃げのびる。大化改新の功臣藤原鎌足が亡くなって2年(671年・天智天皇在位10年)皇位継承をめぐって葛藤が表面化。川舟に乗って帰って来た老人夫婦は、我が家の方に星が輝き、紫雲のたなびいているのを見て、高貴な人のおいでになるのを覚る。一書によれば、大海人皇子は妃の鵜野皇女(のちの持統天皇)のほか多くの舎人を連れて吉野に入ったとある。侍臣は老人に清見原天皇であることをあかし、「何か御食事を」と頼む。夫婦は根芹と国栖魚(鮎)を献上。供御の残りを賜わった老翁は、吉凶を占うべく、国栖魚を川に放つと、不思議にも国栖魚が生き返った。天皇がやがて都へお帰りになる吉兆だと喜ぶ。そこへ追手が迫る。時に大友皇子は太政大臣、蘇我赤兄は左大臣、中臣金連は右大臣。彼らは「虎に翼をつけてはなったようなものだ}と大海人皇子の存在に不安を駆られていた。

夫婦は岸に干してある舟の下へ天皇を隠し、敵をあざむいて追い返えす。天皇は老人夫婦の忠節に感謝し、身の拙さを嘆かれるので、夫婦も涙にむせぶ。夫婦は何として御心を慰めようと思ううちに、妙なる音楽が聞こえ、老人夫婦の姿は消え失せる。後半は天女が現れ、楽を奏して舞を舞う。蔵王権現も出現し、激しく虚空を飛びめぐって、天皇を守護することを約し、御代を祝福する。

天智天皇の崩御はその年の12月3日であった。壬申の乱を経て673年に即位される。天武天皇である。

終わって有楽町でお茶を飲んで別れた。私はふと芭蕉の「旅人と我が名呼ばれむはつしぐれ」の句が浮かぶ…。

「木枯らしや吾も旅人三輪山」悠々