銀座一丁目新聞

茶説

荒牧万佐行写真集「中国文化大革命」の
意味するもの

 牧念人 悠々

荒牧万佐行君が写真集「1967年―中国文化大革命」(集広舎刊・11月22日刊)を出版した。昨年「文化大革命50年」写真展を東京都内3ヶ所で開催。見学に来た中国留学生が「こんなに大変だったとは思いませんでした」と感想を漏らす。ハルピン・大連と少年期を過ごした私には中学時代、中国人の同級生を持つ。一高・東大医学部中退の学歴の彼は文化大革命の時の話は一切しなかった。中国に共産党政権が出来たのは1949年(昭和24年)であった。文革が起きたのはそれから12年後の1966年である。本書によれば、文革とは素人による専門家批判であり学校出でない者の学校出にたいする批判であった。都市と農村、労働者と農民、精神労働と肉体労働の三大差別をなくそうとした運動でもあったという。毛沢東は「造反有理、革命無罪」とこれを支持した。貝塚茂樹著「中国の歴史」下(岩波文庫)によれば、「1958年の大躍進運動の挫折の後、これによる経済の後退を回復するため劉少奇(国家主席)とった政策により党の書記局を中心とする独裁体制がより強化された。年少の紅衛兵が起爆剤となった文化大革命は劉少奇を頭とする実権派に造反する意味を持っていた」と解説する。文革は最後、敗北に終わるが共産党政権誕生の12年後に示された民衆の不満・怨嗟・無力感・貧富の格差は今なお地下にマグマのように不気味に渦巻く。

おさめられた写真は160点。1967年1月から2週間、毎日新聞の中国特派員視察団の一員として深圳、広州、武漢、北京、上海の各地を取材した(視察団は東大教授林健太郎、慶大教授村松映、経済評論家土井章の各氏)。これらの写真を7章に分ける。

第1章「街は巨大な掲示板になった」(写真22枚)。いまでも記憶されるのは「壁新聞」である。ここにこそ既存のメディアが報道しない真実があった。日本の特派員もこの壁新聞から取材した。漫画や風刺も登場した。

第2章「議論を尽くし社会と自己を改造する」(写真20枚)。批判された人は三角帽をかぶされ街頭を歩かされた。革命時の功労者も著名人も例外ではなかった。習近平主席の父親習仲勲も厳しい批判を受け拘束されている。習自身も16歳の時に「農民に学べ」と陝西省の農村へ送られた。中国革命はロシア革命の反省の上に、説得と教育、納得と反省という方法を編み出したという。紅衡兵が活躍した。農村からどっと繰り出してきた。多くの文化財が破壊された。ハルピンの名物・ネギ坊主の塔を持つ中央寺院も壊された。

第3章「ひたすら歩く」(写真23枚)。解放軍兵士も銅鑼や太鼓を打ち鳴らして毛沢東主席の写真を持って行進した。3メートルの特大の毛沢東の肖像画を担ぎ、旗をたなびかせながら歩む。赤い表紙の毛沢東語録がはやった。荒巻君も日本語訳の「毛語録」を渡される。

第4章「群れる、好奇心」(写真25枚)。タイトルには『文化革命は人々が「時の主たろう」(武満徹)した実験だった』とある。若者たちが男も女も熱に浮かされたように毛沢東を称賛する。工場施設には見学する紅兵衛の姿があった。街には文化大革命の文字が躍った。荒巻君の視察団より半年前に中国を訪れた大宅考察団の団長大宅壮一は「ジャリ革命」と命名した。「革命は武器から生まれる」。騒ぎは所詮「群れる、好奇心」に過ぎなかったのかもしれない。

第5章「労働は権利だ」(写真22枚)。初めに収穫されたトウモロコシが馬にひかれた荷台にうずたかく積まれた写真が出てくる。満州育ちの私は畑一杯に広がるトウモロコシや高粱を思い出す。荷台に乗る防寒帽子の男は無表情。文革の大騒ぎの中でも農民は食っていかねばならない現実がある。牛乳配達、ミシン工場、洋品店、リヤカーでたくさんの籠を運ぶ労働者など…人間は食うために働かねばならい。

第6章「天の半分」毛沢東は「婦女能頂半辺天」(女性は天の半分を支える)といった(写真25枚)。中国は労働法、婚姻法などあらゆる法律で女性の権利を守っている。給料も男女格差がなく夫より高い月給をもらっている妻も少なくない。また人民解放軍、飛行操縦士。工場長などあらゆる職場に進出する。

壁新聞がいっぱい貼られた建物のそばを歩む若い女性。防寒コートに防寒頭巾をかぶり、手提げバッグを持つ。首に白いスカーフをのぞかせる。壁新聞には無関心に見える(本の表紙になっている女性)。女車掌、赤ちゃんをあやす保母さん、白いマスクをかけた3人の女性。腕に「紅衛兵」の腕章をまく。壁新聞を讀みに来たという。ホテルの女性従業員、毛語録や歌を聞かせる女性税関職員など。こんな新聞記事が残されている。1ヵ月間中国を旅してきた女性記者の報告である。「撫順へ行った時だった。駅の木陰に若い夫婦が休んでいた。それはいいが夫は赤ん坊を抱いて妻はのんびりたばこをふかしていた」(1954年10月30日・山主敏子・共同・「新潟日報」掲載)

第7章「生活の中の革命」文化大革命のさなかにも日々「普通の生活がつづいて」(武田泰淳)いた(写真27枚)。いつの世にも革命と無縁の庶民がいる。アヒルに餌をやる老人の写真がある。池の足場に中腰の老人は餌の入った籠を持っている(1月29日・上海)。恐らく老人の日課である。それが楽しみでもあろう。雪の天安門広場を背景にして親子ずれの写真(1月26日・北京)。もちろん門の正面には毛沢東の写真があり、20人ぐらいの人たちが佇んでいる。この写真が撮られた日より18年前の1949年10月1日この広場で毛沢東は演説をした。「この100年来、われわれの先人は内外の圧迫者に対して不屈の戦いを続けた。戦いは一瞬も途切れることはなかった。我が民族はもはや人に侮辱される民族ではなくなった。我々はすでに立ち上がったのだ」(諸星清佳著「中国革命の夢が潰えた時」中公新書)。労働者は働く。「ガソリン節約のため上流へ船を曳く労働者の写真(1月29日・上海)。朝の通勤ラッシュの写真.土を運ぶシャペル・運搬車。道路普請に従事しているのは全員女性である。その数20人ぐらい(1月22日・広州)。自転車の人力車に乗る乗客の写真もあった(1月29日・上海)。荒牧万佐行君は別に結論を示さず後書きで「これら文革の写真が歴史の資料に少しでも役に立つことを心から願っています」と結ぶ。文革は腐敗する共産党政権に対して起こされたものだ。終息するまでに権力闘争を巻き起こしながら第9回(昭和44年4月)、第10回(昭和48年8月)、第11回(昭和52年8月)全大会まで11年間かかっている。この反省に基づいて習近平主席は腐敗撲滅を徹底する。しかし権力が常に腐敗するのは歴史が示すところ。独裁政権の寿命はジンバブエのムガベ大統領が35年、ソ連邦の崩壊が70年である。盤石に見える習近平政権だがやがてほころびが見えてくる。荒牧君の写真を見終わってそう思う。