暴力について考える
牧念人 悠々
ある本の後書きに書いた。「その姓(牧内)が示すように、その祖先は牧畜と関係があり、顔相は明らかに『モンゴル型』である。坂元宇一郎著『顔相と日本人』(サイマイル出版会)によると、モンゴル型は『頭の回転が速く、決断力があり、よく論じ、よくしゃべり、時として統率力に優れたである。だがモーレツ、粗野、慎重配慮の不足の恨みがある特性がある』ということである」
毎日新聞社社会部長になった時、部下は105人いた。在位期間は1年1ヶ月であったが部下たちはモーレツ、粗野に相当悩まされたようだ。だが手を出さなかった。ロッキード事件のさなかであったので紙面作りに忙しかったという反面もあった。陸軍士官学校時代は「剣電弾雨の間に立ち勇猛沈着部下をして仰ぎて富嶽の重きを感ぜしめざるべからず」と教わった。ともかく部長はやたらと喜怒哀楽を現すものではないとしつけられてきた。時にやった麻雀で満貫の手になっても素知らぬ顔が出来た。
今回の横綱日馬富士の暴行事件は残念でならない。日馬富士は私と違って『モンゴル型』でなくモンゴルそのものである。激しさの程がよくわかる。
「銀座展望台」(11月15日)に感想を述べた。「優勝9回の記録を持つ横綱日馬富士が引退へ…力士の喧嘩はあくまでも土俵の中でやるもの。土俵外でやるとお互いに大ケガをする。横綱日馬富士は宴席で平幕の貴ノ岩をビール瓶で殴打、大けがをさせる(10月25日・鳥取巡業)。このため、九州場所を日馬富士は3日目から、貴ノ岩は初日から休場する。理由はともあれ、大相撲は何よりも礼儀を重んずる。横綱は品格が求められる。これまでも暴力事件が相次ぎ大相撲の人気が落ちたことがある。ここ数年その弊害が改まり、各場所とも満員御礼の垂れ幕が下がるようになってきた矢先である。お相撲さんは“体が大きくいつも優しく力持ち"という印象を壊したくないものだ」。
一概に喧嘩は悪いとは言えない。「喧嘩は仲良しの始まり」とよく言われる。喧嘩したことによって今までのわだかまりがなくなって仲良しになった例がいくらでもある。喧嘩をする場合は素手でやることだ。素手であればひどくても大怪我をすることはまずない。
座右の書・守屋洋著「新釈―菜根譚」(PHP)にこんな言葉がある。「心が動揺しているときは、手にした盃に弓の影が映っても蛇かと驚き、叢の岩を見ても虎かと見まがう。目に触れる者が全て自分に襲い掛かってくるように思われる」という。感情のもつれが日馬富士の平常心を失わせる。酒が入ればなおさらである。日馬富士の盃に何が映ったか知らないが、こらえきれなかったものかと思う。暴力から何も生まれない。むしろ恨みだけでなく負の波紋の方が大きくなる。潔く責任を負うしかない。