銀座一丁目新聞

追悼録(651)

柳路夫

同期生鈴木七郎君を偲ぶ

同期生鈴木七郎君が亡くなった(平成28年11月・享年91歳)。数年前から体調を崩していたのは知っていた。陸士予科時代同じぐらいの背格好から話す機会が多く、親しかった。戦後、自衛隊入隊後もつきあいがあり、退職後、湘南地区の同期生のゴルフ会(場所・葉山国際カントリークラブ・会費1000円)の幹事を務めるなど世話をよくみた。真面目で誠実な人柄であった。

私たち陸軍予科士官学校59期・23中隊1区隊は平成18年10月戦後60年を機に区隊史「平成留魂録」を出版した。その中で鈴木七郎君が「陸上自衛隊と私」という一文を書く。その内容を紹介しながら彼を偲びたい。

鈴木君は新聞広告(8月に隊員の募集。月給5千円。2年金後の退職金6万円)と地元逗子警察署長からの案内から昭和25年10月、警察予備隊に入隊した。数名の同期生も同時に入隊しおり心強い思いをする。当時、朝鮮戦争のさなかであった。昭和26年1月から3月の期間、北富士演習場で積雪地実弾訓練中、回転的を操作していた隊員の頭部に跳弾が当たり死亡する事故が起きた。当時、鈴木君は積雪地訓練部隊の訓練担当の2等警察士(2等陸尉)であった。亡くなった隊員の実家は果物店で息子に跡を継がせる前に心身を鍛えさせようと予備隊に入隊させたのであった。両親の深い悲しみを見て「隊員を絶対に死亡させてはならない」と深く心に言い聞かせたという。

昭和34年11月、統合幕僚会議議長林敬三陸将の副官を命ぜられる。林陸将の格言はⅠ、仕事に惚れ、2、土地に惚れ、3、妻に惚れである。座右の銘は「大いなる精神は静かに忍耐する」。宮内庁次長から総隊総監への就任であった。鈴木副官はなれぬ仕事で失敗の連続であった。このころであったと思う。鈴木君が毎日新聞社会部にいた私を訪ねてきた。お茶を飲んで別れただけであった。彼の悩みなど全く知らなかった。3ヶ月で先任副官に転任願いを申し出る。先任のⅠ佐副官曰く「鈴木3佐、君が3ヶ月で辞めるということは林議長の将徳を汚すことになるが承知のうえだろうね」と言われ、心機一転、着任当時の初心に戻り丸3年務めあげた。

昭和45年11月25日に起きた三島事件を目撃する。鈴木君は当時自衛隊幹部学校の幹部高級課程の学生として市ヶ谷の陸上自衛隊で講義を受けていた。三島由紀夫については後輩から自衛隊フアンでありたびたび自衛隊に出入りしており立派な紳士で尊敬もされていたのでびっくりした。しかし三島の本心はわかりかねた。三島が陸上自衛隊富士学校の上級幹部課程に1ヶ月半体験入隊した際、菊池勝夫1尉(防大4期)は上司の指示で三島の学友となりお互いに人格にほれ込み肝胆照らす仲となった。体験入隊が終わった後も交友があり、交換した書簡は20通を超える。この問題に詳しい人が菊池1尉の思いを次のように推測したという。「三島さんは自衛隊を愛するがゆえに死んだ。憲法を改正し国軍にし、隊員に軍人の自覚を与えたかった。それでこうゆう行動に出た。自分を含め自衛隊幹部は三島さんの気持ちをうけとめようとしなかった。憲法改正に向かって声を上げることもしなかった。我々を見て三島さんは無念の思いで死んでいったに違いない。生命を賭して自衛隊幹部に訴えかった魂の叫びを無にしてならない」

これを推測した人が鈴木君本人かもしれないし、また同期生かもしれないと思う。三島事件からすでに47年もたつ。いまだに三島由紀夫が死を賭して果たそうとした「憲法改正して自衛隊を国軍にする」念願は達成していない。

その後、鈴木君は第10普通科連隊長、沖縄地方連絡部長を務め昭和55年陸将補で退官した。30年間の自衛隊生活であった。

いま彼の一文を読み返してみてもさすが元士官候補生と共感し、友人としたことを誇りとする。心からご冥福をお祈りする。