銀座一丁目新聞

花ある風景(650)

並木 徹

盛大に実り多い五輪の会開かれる

同期生の集まり「五輪の会」(第8回)が開かれた(11月9日・大船・中華料理店「千馬」)。参加者21名。この日、配布された資料は佐藤九州男君の「平和」、半田精三君の「自分史」、荒木盛雄君の「老年医学指針」(この日欠席)、河部康男君の「相模原で開かれた啄木のコンサートをめぐる話」、佐藤君と牧内節男君の「五輪の会賛歌」と「鈴木七郎の陸上自衛隊と私」(予科23中隊Ⅰ区隊史から抜粋)などであった。

司会は安田新一君。初めに今年亡くなった小池俊夫君、林顕君、鈴木七郎君らの冥福を祈って黙悼を捧げる。乾杯の音頭は西村博君。「手元にある59期生の旗とのぼりはいつでも2世会に渡す」という。梶川和男君は「今年もまた権現山の碑前祭には多くの人の参加を望む」と挨拶する。佐藤君はサイパン・沖縄・知覧と慰霊の旅をつづけたその結論は戦争で死んだ数千万の人々心の内を思うと憤怒となり感情に滾る平和構築の模索に変わったと最近の心情を披露した。河部君は昨年10月知人の郷土史家の企画で開いた「石川啄木生誕130記念・啄木歌コンサート」を聞きに行って初めて啄木と憲政の神様尾崎咢堂との間に深い交流があるのを知った。そこで相模原市南区津久井湖畔にある尾崎咢堂記念館を訪れ知識を広めたという。啄木は明治37年、単身上京した際、時の東京市長尾崎咢堂を訪問した。咢堂の日記にもそのことが書かれている。さらに尾崎がワシントン・ポトマック河畔に贈った桜の苗木、その桜が日本に里帰りした物語などを紹介した。2世会の世話役として精力的な活躍している神保明生君から59期生の懇親会を2世会が事務局になって平成30年5月20日(日曜日)正午から「偕行社」で開きたいと報告があった。神保君からは今年9月15日に開かれたた依田英房翁(権現山遥拝所跡碑の建立者)の50回忌の記録をいただく。今回もまた北海道から野俣明君が参加、全員に道産の名物を配る。聞けば90過ぎて息子の反対を押し切って大型バイクを購入したという。牧内君は鈴木七郎君のように子供たちのために自分史を書き残したいと話をする。いつもは十八番の「戦友」を歌い、ハーモニカを吹くドクター北俊男君がこの日は大人しかった。世田谷の代沢の自宅から開業医をしている次男夫婦の車で会場まで来た。帰りも次男の車であった。孝行息子を持つ北君は幸せな男だ。

恒例の古屋康雄君の「ハーモニカ」演奏に移る。軍国歌謡メロデー。「兵隊さんよ有難う」「上海便り」「ズンドコ節」「太平洋行進曲」「満州娘」「日の丸行進曲」の6曲。みんな口ずさむ。「ズンドコ節」が好評であった。戦前の歌を次から次に歌うので隣で昼食会を開いていたグループがびっくり、中年の男性が「どのような会ですか」と尋ねに来るハプニングもあった。続いて「校歌」と「59期生会歌」を合唱して幕を閉じた。最後は霜田昭治君による写真撮影。笑うより目を大きく開くよう注意される。終わって近くの喫茶店でコーヒーをいただく。参加者9人、この雑談も貴重で面白かった。著名な柔道家・徳三宝を伯父にもつ指宿清秀君は今年、徳三宝が生まれて130年たつのでそのお祝いの会が夜、恵比寿であるという事であった。

会が終わって2日後の11日午後、古屋君から251頁もある自分史「予期しない運命」(自費出版)が届いた。野球少年であった子供の時から陸士予科、航空士官学校、満州での操縦訓練の話、戦後「はとバス」で役員となって大活躍、さらに家族にまで筆が及んでいる。実に克明である。予科時代、兵科志望で「輜重」を志望した私と違って飽くまで航空を望んだ古屋君の人柄がよく出ている内容であった。