安全地帯(554)
信濃 太郎
権現山物語
59期生の中には満州国陸軍軍官学校(校長山田鉄次郎中将・陸士20期)で予科を過ごした者が137名いる(名簿には33中隊Ⅰ区隊から4区隊としている)。日系第4期生で中国・新京‣同徳台での入校式は4月8日であった。航空は昭和19年3月22日予科を卒業、29名が所沢の航空士官学校に進む。地上兵科は同じ年の10月14日座間の陸軍士官学校に入学。私の14中隊1区隊にも3名の軍官出身がいた。当時、激しい訓練に明け暮れ、そのようなことはべつに気もとめなかった。私と大連2中で同窓の渡辺武君(高射兵・平成22年4月11日死去)も軍官出身であった。戦後何度か開いた大連2中の同窓会に彼は一度も顔を見せなかった。戦後は警察畑で働いた。本科で一緒であった片山弘夫君(平成16年11月12日死去)の葬儀に参列した時。出席した同期生は予科を同徳台で過ごした者ばかりであった。みんなで「校歌」と「円別離」を合唱。家族を感激させた。そこで同期生の津田幸冶君(歩兵・15中隊1区隊)と知り合った。59会の幹事をしており我々の面倒をよく見てくれていた。真面目な人であった。
私の手元に津田幸冶君が亡くなった(平成25年2月6日死去)際、当時首都圏代表であった西村博君(歩兵・14中隊2区隊)が読んだ弔辞がある。それを一部紹介する。
「津田君、本日ここに君のご霊前にぬかづきお別れの言葉を申し上げるとは予想だにし得ない事でした。君は首都圏幹事として59期生会の運営に参加され、また麻雀、カラオケの世話人として、また靖国神社の昇殿参拝の仲間として親しく同期生の交流に寄与されておりましたが兼ねてより胸部の痛みを話され最近は病床にある由で心配しておりました。薬効空しくお別れの事態になりましたこと真誠に痛恨の極みであります。
君は昭和18年4月付を以て戦況苛烈に戦局の逼迫していた時局下に宮城県立築館中学より祖国に殉ずるため満州国軍官学校を経て陸軍士官学校に第9期生として栄光も門をくぐられましたその日より私どもは血盟の同志として純粋で充実した日々を重ね一死国に報いんとする誇りを持ち若き躍動と感激のみなぎる台上の生活に終始しました。
不幸にして志半ばにして終戦を迎えてより新生日本の新しき礎となるべく、それぞれの道を選んだ中に君は東北大学経済学部を経て東京都庁に入り杉並区役所,監査局長に至るまで公務員行政の本道を踏破されました(略)」
この後、西村君は津田君が59会の重鎮の幹事として活躍されたことに感謝しつつ別れの言葉を述べた。戦後多くの軍官出身者が各方面で活躍した。