銀座一丁目新聞

追悼録(649)

湘南 次郎

七里ヶ浜に咲いた愛国の花

「七里ヶ浜の磯づたい、稲村ケ崎名将の、剣投ぜし古戦場」、「真白き富士の根、 緑の江の島」七里ヶ浜は景勝の地である。わたしはバレエについて全くの門外漢であるが、拙宅が昭和51年に東京から七里ヶ浜に移り住んで40年、最近江ノ電沿線新聞「パヴロバ・バレエスクール」の特集記事を読んで感慨を深くした。勿論ナデジタ・パヴロバさんのことは、わたしたちが引っ越して来てから住まいがご近所なので、家内が数年、一人住まいであったパヴロバさんに、バレエシューズを購入し、友人とレッスンを受けに行っていたので白系ロシア人の貴族出身の有名なバレリーナとは聞いていたが、なかなかレッスンはきびしく棒をもっていて、脚や手を叩かれたこと、終わるとかならず紅茶と珍しいチーズが出て、訛りのある日本語で雑談をしたこと、ただ砂浜からノミが上がってくるのには閉口したそうだ。

ナデジタさんの姉、エリアナ・パヴロバさんが日本草分けの著名なバレリーナであったことは聞いていたが、靖国神社に合祀されていることは目から鱗であった。彼女は、昭和16(1941)年5月2日従軍慰問団の一員として支那事変に大陸各地の日本軍兵士慰問に活躍中、不幸にも病を得て南京陸軍病院で還らぬ人となった。42才であった。

昭和3(1928)年、ここ、七里ヶ浜に日本ではじめての本格的バレエスクールが誕生した。敷地800坪、建坪60坪の家屋で、浜の砂地の法面(のりめん)に建てられたので、入口が、江ノ電七里ヶ浜駅前を通る道に面した2階にあった。瀟洒な洋館(昭和57年ごろまで)で、白系ロシアの人、母ナタリア・パヴロバ(昭和31年没)、姉エリアナ、妹ナデジタ(昭和57年没)の3人で住んだ。

明治38(1905)年1月9日ロシア帝国ニコライ二世の治世下、デモ隊制圧に向けられた軍隊の発砲により労働者3,000人以上の死傷者を出した「血の日曜日」より、日露戦争に敗れ、第一次世界大戦でドイツに敗れ、経済は破綻し、国内は混乱し大正6(1917)年10月革命をもって帝政ロシアの時代は終わった。そして大正11年末にはソビエト社会主義共和国連邦(ソ蓮)が誕生した。

エリアナ・パヴロバは明治37(1904)年コーカサスで出生、妹のナデジタは明治42(1909)年、ウクライナに生まれたが、当時、貴族であった父はその後すぐに出奔し行方不明、二人は33才の母ナタリアの手で育てられた。乱世のロシアからフィンランドに逃れたのが母41才、エリアナ19才、妹14才であった。この不幸にめげずバレエの素養のあったのが幸いし、ひたむきにバレエの花を開こうと精進した。そして可憐な美しいバレリーナは評判になり、一家を支えることになった。一家はその後もロシア革命の混乱に翻弄され、ついに大正8(1919)年、今で言う白系ロシア難民として神戸に逃れて来て、本格的バレエを開始し、横浜に移ったものの大正12(1923)年9月1日の関東大震災に遭遇、半年間上海に逃れ再度来日、鎌倉にスタジオを構えたが、昭和2年日本におけるバレエ発祥の地として七里ヶ浜に本格的バレエスクールを建設し開校した。当時、母と妹は結核を患っていて、七里ヶ浜には空気がいいので療養所が多くあり療養をさせたかったのであろう。そして日本においてもエリアナは世界的バレリーナとして名声を博し公演はいつも大盛況であった。そして貝谷八百子、東勇作を始め多くの著名な弟子を輩出し、エリアナのあと妹のナデジタが亡くなるまで継いでいた。そして、いまも日本バレエの灯は消えることはない。

勿論一家は昭和12(1937)年に帰化しており、エリアナは日本名「霧島エリ子」と命名していた。彼女の居室には天皇陛下の写真が飾ってあったという。政府は、彼女を「陸軍軍属戦病死」として靖国神社に合祀し、昭和16(1941)年には陸軍省より金1,350円の弔意の御下賜金があった。鎌倉市も市葬を行ったと記録されていて3人は横浜外人墓地に葬られている。現在は、バレエスクールの建物も長年の潮と風雨にさらされて主の居ぬまま朽ち、弟子たちによって建て替えられて記念館となり顕彰碑が立っている。

真白き富士のけだかさを
  心の強い盾として
御国に尽くす女(おみなら)は
 かがやく御代(みよ)の山さくら
地に咲き匂う国の花               愛国の花(昭和歌謡)

(参考文献)
江ノ電沿線新聞503号  吉田克彦 所載
七里ガ浜パヴロバ館   文明社     白浜研一郎者