「運慶展」に感あり
牧念人 悠々
「運慶展」を友人荒木盛雄君に誘われ霜田昭治君と3人で見る(10月17日・東京・上野・国立東京博物館)。天才仏師である。あらためて辞書で調べると「鎌倉初期の彫刻家。定朝の玄孫康慶の子、写実的で力強い様式を作り上げ、その系統は鎌倉時代の彫刻界を支配した」とある(「広辞林」)。この日は雨模様の天候にもかかわらず会場入り口から4列の長い列を作る。 国宝「大日如来坐像」(承安6年・1176年、奈良・円成寺蔵)。運慶20代の作。制作に1年余をかける。藤原時代の作風が残る。「大成した運慶の天分がうかがえる」と専門家は言う。年をへたため金属の衰え隠し難いが端正さは十分にうかがえる。大日如来は密教では最高絶対とする仏格で、全宇宙一切の万物を哺育する慈母。結ぶ印を「智拳印」という。22日の投票日朝には「智拳印」を結ぶ。
運慶は、北条時政(1138~1215)の注文で静岡・願成就院の「本尊阿弥陀如来坐像」・「毘沙門天立像」・「不動明王三像」など5体を作る。中でも国宝「毘沙門天立像」(文治2年・1186)はひときわ目立つ。堂々と胸を張り、引き締まった体に圧倒される。毘沙門天は北方の守護神で右手に鉾、左手に塔を捧げる。足下に邪鬼を踏みつけ瞋目威相の武神。毘沙門天信仰は江戸時代まで続き造像数は多い。 運慶は平重衡の南都焼討(治承4年・1180)で灰燼に帰した興福寺、奈良・東大寺の復興に尽くす。源平の争乱・平家滅亡(文治元年・1185)の中で運慶はその才能を育み、大きく伸ばした。京の貴族の依頼だけでなく、東国武士の求めにも応じ、多くの仏像を制作した。人体をよく観察し、骨格や筋肉の付き方までいきいきと写実的に表している。ルネサンスのミケランジェロ(1475~1564)とよく比較されるがミケランジェロよりも300年も早い。
目を見張るのは和歌山・金剛峯寺の国宝「八大童子立像」(建久8年・1197年頃)。八大童子とは、不動明王の眷属(従者)である。不動明王の周囲を警護すると同時に補佐役を務める。
「矜羯迦童子」(こんがらどいじ)。合掌のポ-ズ。童顔。今でも街を歩けば見かける顔である。
「制多迦童子」(せいたかどうじ)。髪を五髻に結ぶ。顔はあどけない。極めて現代的。上半身裸体で両肩をスカーフで被い結んでいる。
「紅顔の制多迦童子秋澄めり」荒木盛雄
「恵光童子」。右手に金剛杵、左手に蓮華を持つ。
「恵喜童子」右手に三叉戟、左手に摩尼宝珠を持つ。
「鳥俱婆迦」(うぐばか)。右手は金剛拳にして腰を押し左手に独鈷杵を持つ。頭に網目の帽子をおく。
「清浄比丘童子」。袈裟を身に着け右手に五鈷杵を持つ。お顔は柔和で引き付けられる。
「指徳童子」。甲冑をつけ右手に三叉戟を、左手に輪宝を持つ。
「阿耨多童子」(あのくたどうじ)。右手に三鈷杵を、左手に紅蓮華を持ち、青竜の背にまたがる。頭髪は逆立ち憤怒の相である。
「阿耨多童子」と「指徳童子」は他の6作とは制作年代を異にし鎌倉後期の作品とみられる。国宝から除外されている。いずれも玉眼を使っており目力がすごい。玉眼を使った例は中国では見られない。仏像の迫真性を求める日本独特のものである。
「千年を見通す玉眼秋高し」荒木盛雄
運慶は大仏殿の「持国天像」の造立を指揮し(建久7年・1196)、東大寺南大門の「金剛力士(仁王)像」を快慶と合作する(建仁3年・1203)。仁王は金剛杵を持ち二体となって仏法を守護する神である。阿形(開口)836㎝,吽形(閉口)842㎝.憤怒の相、筋肉隆々とした体躯は鎌倉時代の剛健な作風を示す.造立期間72日間、参加工人は運慶、快慶のほか小工16人と記録にある。 晩年の運慶がたどり着いた境地を見せてくれるのが、興福寺の国宝「無著菩薩立像・世親菩薩立像」(建暦2年・1212年頃)。見ていると何となく親しみがわく。
「笑み湛え無着菩薩や風爽やか」荒木盛雄
心は形に現れる。運慶の彫刻家としての円熟した彫技を発揮する。川が流れるように鑿を振るえば己の思う像が仕上がる"名工の境地“に到達したといえる。無著・世親の兄弟は北インドに実在した学僧で、法相宗の教えを体系化、浄土教の先覚者としてあがめられている。無著195㎝、世親192㎝の背丈で、重厚なたたずまいを見せる。いつもは無著・世親菩薩は興福寺の北円堂に、国宝「四天王立像」(康慶作・文治5年・1186年)は南円堂にそれぞれ安置されているのだが、今回はこれらを組み合わせて同室に置いている。この四天王像も無著・世親菩薩とともに、かつて北円堂にあったのではないかという説が有力になっているからだ。同じころ興福寺にある「弥勒菩薩坐像」を作る.高さ142㎝。(建暦2年・1212)。運慶ら工人16人が造立する。「運慶らしい重厚なきびしい個性が見られる」という。
「四天王」は多くの鬼神を従え、強力な武器を持ち東西南北の方位を守護する。東方「持国天」。南方「増長天」。西方「広目天」。北方「多聞天」という。「増長天」の前で何故か、2,3分佇む。「これ以上悪や病気に付きまとわれないよう」手を合わせる。
「増長天岩を踏んまへ雲の峰」荒木盛雄
四天王はその国土を安穏豊楽にするといわれ、中国でも韓国でも四天王の護国信仰が普及した。奈良時代、聖武天皇が各地に建立された国分寺は「金光明四天王護国寺」である。
「踏まれつつ邪鬼の見上ぐる天高し」荒木盛雄
運慶には6人の息子がいる。いずれも仏師になった。このうち運慶の後継として慶派仏師を率いた長男の湛慶(1173~1256)、そして三男の康弁(生没年不詳)が著名である。京都・高山寺の明恵上人(1173~1232)は湛慶の腕を信頼し多くの仕事を依頼している。中でも「小犬」(重要文化財・鎌倉時代・13世紀・京都・高山寺)は逸品。会場で仏像を見てきた中で「子犬」とは極めて珍しく感じた。運慶の写実的な筋肉表現をより強く受け継いだのは康弁。彼が手掛けた国宝「龍燈鬼立像」(健保3年・1215年・77・3㎝)(興福寺蔵)と「天燈鬼立像」(77.8㎝)。小さな鬼が仏前に灯篭を捧げる姿。竜燈鬼は身に竜をまき頭上に灯篭を乗せている。見ていてユーモラスである。肩に銅板、竜の背びれに皮を用いている。玉眼である。今は脱落しているがひげは銅線を使ったというからすごい。両像とも被災の後を示す。今回の展覧会は運慶と縁の深い興福寺の中金堂が約300年ぶりに再建されるのを記念したもので、仏像を360度、ぐるっと見られるようにしたのは良かった。多くの人が裏から仏像を眺めていた。見終わって会場を去り難い思いをしたのは私だけではないであろう。
「あな嬉し運慶展や秋深し」悠々