銀座一丁目新聞

安全地帯(552)

信濃 太郎

権現山物語

権現山の碑前祭をしばしば原稿にしてきた。その都度、参加者の顔触れが変わった。同期生は皆一度ここに来てみたいのである。平成20年4月25日の碑前祭の模様を見てみる。

この日、権現山は私たちをことのほか温かく迎えてくれた。快晴、山の桜は満開であった。幾度となくこの地を訪れているが、これほど見事に咲いた桜を知らない。染井吉野も白妙もウコンも咲き誇っていた。風は少しばかり冷たかった。元南御牧村長、依田英房さんが建てた「皇居遥拝所跡」の碑の前に集まった同期生31名(遺児一人、夫人一人)。北海道、石川、名古屋からも参加する。

 碑前祭には三浦大助佐久市長も姿を見せ今後も権現山の公園化の計画を進めると挨拶する。一時予算もついた公園化の話は一人の地権者の反対で頓挫している形となっているのを踏まえての話であった(公園化の話は駄目になった)。依田さんが敗戦から21年目に碑を建てた心の内を慮ると、毎朝この地で東方に遥拝、日夜鍛錬を続けた陸士59期の歩兵科士官候補生たちは敗戦を迎え「この山上に慟哭、解体して四散」した。その男たちが日本再建のために活躍していると聞いて「敗戦の無念さを胸に、それをばねとして立ち上がった若者たちの志」をこの地に残そうとしたのだと思う。夫人つや子さんと一緒に初めて碑前祭に参加した前田孝三郎君(脚本家柴英三郎。歩兵・14中隊Ⅰ区隊)は依田翁の志と格調の高い文章に感嘆する。閉会の辞に野俣明君(船舶。16中隊5区隊)がガダルカナル島で戦死した若林東一大尉(52期)の日記の感想を述べ若林大尉が残した「後に続く者を信じる」に共感するとしめた。依田さんも言いたかったのはこのことではなかったかと思い当った。初めて自衛隊長野地方協力本部の田上健吾1等陸佐が出席された。友人に渡した名刺の裏には「橘中佐遺訓」として軍人勅諭の5カ条が記されていた。

 昼食は例年の如く「佐久ホテル」で鯉料理をいただく。雑談に花が咲く。野俣君が予科時代の大村助吉区隊長(51期・昭和20年8月31日憤死)の思い出や区隊長の息子さん、政義さんと深く交流している話を聞く。奥さんを亡くして5年たつ安部光亮君(航空通信・航空27中隊3区隊・平成25年2月10日死去)は旅立たれて1年間が最もつらいと心の内をのぞかせる。「街を歩いていると、旅先から帰ってきた女房がひょこり現れてくるような気になることがしばしばある」という。ほろりとした。

 今年もまた往復とも清水廉君(歩兵・11中隊Ⅰ区隊)のお世話の観光バスに乗る。帰りのバスの中で野俣君が「ボケます小唄」と「ボケない小歌」を披露する。それぞれの1番「何もしないで ぼんやりと/テレビばかりを みていると/のんきな様でも 年をとります/いつかしらずに ぼけますよ」1番「風邪もひかずに 転ばずに/笑いも忘れず よくしゃべり/頭と足腰 使う人/元気ある人 ボケません」

 新宿駅で「今日は君から元気をいただいたよ」と感謝して野俣君と別れた。私と同じ京王線で帰宅する梶川和男君(船舶・16中隊5区隊)もうなずいていた。

翌年の碑前祭は4月25日開かれた。参加者は18名に減っている。中川栄一君(歩兵・15中隊Ⅰ区隊)は小松市から6時間かけての出席であった。

この日の模様を紹介する。昨年は春が遅く桜が満開であったが今年はわずか「白妙」と「関山」(八重桜)が花を咲かせていた。「皇居遥拝所跡」の碑の前に集まったのは18名であった。(首都圏10名、東海4名、石川1名、地元長野3名)。嬉しかったのは佐久市長に当選したばかりの柳田清二市長が多忙の中、公務第一号の行事として来賓の挨拶をしていただいたことである。柳田市長は59期生がこれまで40年にわたって、戦争中この地域の国民学校に分散宿泊し、訓練に励んできた昔をしのびつつ交流を深め、さらには100本の桜を植樹しこの土地を大切にしてきたのに敬意を表すると述べて次のように挨拶した。「戦争を経験した世代の方々がすくなくなってきており、戦争が残した様々な傷跡や史実への認識が薄れてきているが、この権現山はみなさんにとって思い出深い大切な土地であるので今後もできる限り協力させていただきたい」

 三浦大助前市長時代権現山一帯の公園化の話があって予算もついたが一部地主の反対もあって頓挫した。柳田市長の話で地域を縮小して「碑と桜のある公園」として実現する可能性が出てきた。これまで地元市会議員として公園化に尽力していただいた坂本久男さんも今後の協力を約束してくれた。柳田市長の挨拶で人間魚雷「回天」を黒木博司少佐とともに創案した仁科関夫中尉(海兵71期)が佐久の出身と知った。仁科中尉は殉職した黒木博司少佐の遺影を抱いて「回天」に搭乗、昭和19年11月20日、特攻「菊水隊」としてカロリン群島ウルシー泊地に突入、戦死している。

 昼食は例年の如く「佐久ホテル」で鯉料理をいただく。昔話に花が咲く。毎回参加している中川栄一君は聞けば隊付きは私と同じ岐阜の68連隊であった。昭和20年2月から3月にかけて、歩兵科の同期生は全国の歩兵連隊に配属されて約1ヶ月の隊付き訓練を受けた。毎朝、座間の本校と同じく体操を裸で行い、兵隊さんを驚かしたものであった。中川君はお医者さんで今も時に応じて診療をしている。名古屋から来た小関基君(航空・25中隊4区隊)とはこの春、仲間の鳥居崇君(半田市在住)が出した著書「戦争考」を話題にする。ホテルの受付でいただいた「信州佐久の方言いろは番付(前編)(後編)には「おしとつ どうでやすい おらの こしゃた恋の味」「佐吾衛門さの 鯉は小諸の 殿様も よばれやした」とあった。