安全地帯(550)
信濃 太郎
権現山物語
奄美大島紀行につづいて今度は工兵の川井孝輔君の「祇園祭」を紹介する。彼は戦後。大学で建築を学び日本鋪道に入社するが仕事の上で必要なのは土木であったので今度は大学の夜間で土木を勉強した努力家である。人柄は律儀で几帳面である。今でも暇があれば遠出をいとわない健脚ぶりである。
祇園祭
川井孝輔
月毎に舞い込む旅行案内は、内容豊富の割にはその組み合わせに気に入らないものが多い。結局資源ごみの仲間入りになるのが落ちになる。その様な中にあって先日の案内は、主題の他総べてが未見の組み合わせなので、早々に飛びついたものだった。卒寿を超えた今頃の祇園祭り見物では、物笑いかもしれないが、東京駅7月16日の10時半とのんびりした集合時間に合わせて参じ、30名の一員になった。
鈴虫寺
初めて聞く寺名だが、正式名称は臨済宗の妙徳山「華厳寺」の由で、京都でも有名な西芳寺(苔寺)の隣に在る。苔の保護を目的に、苔寺が完全予約制を採ったことで、「おこぼれ」拝観者が増えたものの「華厳寺」には目立つ寺宝は無く、一時的なものとして憂慮されていた。先代住職が、鈴虫の音色に禅の悟りの境地を感じ、試行錯誤の末に年中の飼育に成功し、常時一万匹もの「スズムシ」を飼育するに至った由。今ではむしろ「鈴虫寺」と呼ばれて売れて居る。バス駐車場から、桂川に注ぐ小さな支流沿いに緩い坂道を辿ると、森に囲まれた鈴虫寺が現れる。なんと参詣者の行列【1】であった。幸いツアーが先約をしていたのだろう、別ルートで中に入れた。我々が着座して満座になったところで、講話開始。処が、団扇その他のざわめきのせいか、意味がさっぱり聞きとれない。補聴器を入れてはいるものの、肝心な時に役立たないでは情けない。残念ながら席を外すことにする。手入れの行き届いた閑静な庭は意外に整い【2】【3】、市の展望も開けて【4】眺めも気に入った。暫く静謐な雰囲気に浸っていると、異変が起きた。朝から上天気だったのが、突然の降雨である。間もなく講話も終わって、ツアー客も帰り始めたが生憎と雨具はバスの中。集合時間が迫るので、仕方なく雨の中を走る。丁度客を送ったタクシーを拾えてバスまで戻ったが、上半身はずぶ濡れ。生まれて初めてバスの中で裸になり、シャッツ交換を経験した。ふと気が付くと、肝心な鈴虫の音色を聞いていない。夜のとばりが降りないと合奏を始めないものか、或いはゲリラ的降雨のどさくさで、聞き漏らしたかであろう。
祇園祭
八坂神社の祭礼である祇園祭は、往時全国的に流行した疫病の退散を祈願し、疫神怨霊を鎮める為に発足した、祇園御霊会が起源だと云う。翌天禄元年(970)以降、年中行事として現在に至るというから、何とも長い歴史を持つ伝統行事ではある。祇園祭は前祭(宵山7月14日〜7月16日 巡行7月17日)山鉾数23。後祭(宵山7月21日〜23日 巡行7月24日)山鉾数10。祇園囃子の音色と共に京都を彩る夏の風物詩であり、国際的なイベントになりつつある。宵山は、夫々地域毎に趣向を凝らして山・鉾を飾りたてる、夜の祭である。祭の混雑を避けてバスを降りた我々は、持て余すほどの自由時間を得、「函谷鉾」の入場券を手に解散した。烏丸通りを南下して祭の中心部に向かうと、四条通はまさに人の波【5】、これには驚いた。この年齢になると、人の波に揉まれ、熱気に煽られるのにはうんざりする。而も山・鉾は、地区ごとに点在して在るので見て回るのも容易で無い。とても全部を見ることはできないので、行き当たりばったりに歩くと、子供の時分に見た昔懐かしい夜店が並ぶ。射的・金魚すくいの他、焼きそば・かき氷等々。古い記憶はおぼろげだが、郷愁を誘って呉れて楽しめた。
宵山散歩
とある広場に人の輪ができているので覗くと、地域の人が太鼓に棒振りを披露して呉れていた【6】。揃いの浴衣での熱演は如何にも祭りの雰囲気を上げるに相応しい。肝心の「綾傘鉾」【7】も近くに在った。豪華さはないが、案内版によれば1834年以来の伝統がある由。音楽と舞踊それに合わせた棒振り芸が特徴で、囃子は古来壬生村の人により奉仕され、現在も壬生六斉念仏講中の人による協力が有る由。町民の努力と協力者のお蔭で伝統芸が続いて居るわけだ。狭い場所での披露であるが、工夫とその心意気が読み取れる。「函谷鉾」を探し当てる。函谷とは勿論中国戦国時代、斉の孟嘗君が秦の国から逃れるときに、鶏の声をまねて関所の門を開かせた故事によるものだが、鉾頭の三角形は山・三日月は夜半を表し、真木には孟嘗君と雌雄の鶏を添えている由。【8】は通に直角に入る狭い路地で、如何にも江戸時代から続く商家街の特徴だろう。左側の建屋の2階が「函谷鉾」の本陣だが、間口は2間程で奥行はかなりのものがある。【9】に見られるように、通路の様な部屋一杯に「函谷鉾」関連の品々が並べられてあった。壁に飾ってあるゴブラン織りの前掛け【10】は、鉾の胴回りを飾るものだが、目を見張るほどに豪華なものだ。【11】は建屋から「鉾」に移動する際の歩道の上に掛る渡り廊下から、四条大通りのにぎわいを、【12】は鉾の中から正面の賑わいを撮ったものである。
「函谷鉾」を後にすると、宵山らしい夜のとばりが下りてきたようで、一段と賑わい、熱気も上がってきた。若い娘らの浴衣姿も微笑ましく,祭りを盛り立てている。かなり大きめの「菊水鉾」【13】が、沢山の提灯に浮かんで見える。町内にあった井戸「菊水井」にちなんで名ずけられ、鉾頭には金色で透かし彫の菊花をつけている由。1864年の兵火で焼失したが、昭和27年88 年ぶりに再興された歴史がある。「山伏山」【14】は山に飾るご神体(人形)が山伏の姿であることからの命名らしい。八坂・法観寺の塔が傾いた時、法力によって直したとの言い伝えから、淨蔵貴所の大峰入りの姿とか、八坂神社・山伏とのご縁が深いようだ。何の由来があるのか?わからないが、素晴らしい色鮮やかな鯉の、幟状の垂れ幕を【15】カメラに収めた。
巡行観覧
宵山は、勝手気ままの散歩で久しぶりに若やいだ気持ちを味わったものの、結構疲れもした。四条烏山地区を中心にほぼ限られているとは言え、とても全部を見ることはできない。 今日の巡行はそれらが勢ぞろいして、四条通から河原町通りを経て御池通りを巡行してくるので、観覧席で待てば全部を見る事が出来る。【16】は配布された案内書による「山・鉾」の解説だが、大小様々で重量は12t近くの鉾から、1t前後の曳山迄各種があり、高さも25mに近いもの迄あるとのこと。我々は御池通りの北側席で待つことになった。巡行はあらかじめ順序が決まり、長刀鉾を先頭に占出山・孟宗山・露天神山・函谷鉾・伯牙山・四条傘鉾・芦刈山・月鉾・山伏山・油天神山・太子山・鶏鉾・木賊山・綾傘鉾・蟷螂山・菊水鉾・白楽天山・郭巨山・保昌山・放下鉾・岩戸山・船鉾と続く。早めの現地到着だったので、地下街を覗くと、東京駅ほどではないものの、立派な商店街や駐車場が御池通りの真下に在った。何処も時代とともに移り変わり、近代化する様子がうかがえる。
待つこと久し【17】だが、この暑さはどうか。うだるような、とはまさにこのことだろう。受付で貰ったチューブ入りの氷塊を首筋にあて、溶けた分で喉を潤すとは正に一石二鳥だと、感心しながら初めて見るジュースを口にする。漸く姿が見えてきた、先陣を切る「長刀鉾」【18】である。揃いの裃で衣装を整えた世話役たちの後を、太い綱を持った曳手が通る。かなりの人数で引いているが、流石にどっしりとした威容の有る鉾【19】だ。尖端に大長刀をつけているところからこの名がある。長刀は疫病邪悪をはらうものとして、1522年三条長吉作の複製品を、鉾頭にしている由。「函谷鉾」【20】が来た。「長刀鉾」に負けない大きさで【21】,
後ろに小さな曳車【22】を従えての巡行だ。可笑しなものだが、宵山で見たことでなんとなく親しみを感じての見送りだった。「四条傘鉾」の地域の子供たちが、囃子の太鼓を叩きながらの行進【23】は矢張り愛らしい。鉾は「綾傘鉾」に似た、織物の垂りをつけた小ぶりなものだった。続いて「芦刈山」【24】の通過である。謡曲「芦刈」に由来する。故あって妻と離れて難波の浦で芦を刈る老爺が、やがて妻との再会を果たす、夫婦和合の姿を現すとか。神輿風でさほど大きなものでは無い。「白楽天山」【25】も似たような大きさで人形は、唐の詩人白楽天が、道林禅師に仏法の大意を問うところを模している由。保昌山【26】は、丹後の守平井保昌と和泉式部の恋物語に取材し、保昌が式部の為に紫宸殿の紅梅を手折ってくる姿を現しているとか。放下鉾【27】は中々の威容である。放下とは曲芸を指すらしいが、それを行う遊芸人が僧の形をしていたことから放下僧の名が有り、その像を天王座にまつることにその名の由来が在る由。殿を巡行したのが「船鉾」【28】である。如何にも船の形であり勇ましい。神功皇后をめぐる伝説によって全体を船の形にし、舳先に金色の可なり大き目な鷁(中国で,想像上の水鳥)を、艫には黒漆塗螺鈿の飛龍文様の舵をつける。なお鉾の上には、神功皇后と陪従する磯良・住吉・鹿島の三神像を安置するという。豪華絢爛な鉾であった。23地区の鉾・山をカメラに納め見送っての帰途、桂小五郎の像を発見する。明治の元勲にして43才で亡くなった洋服姿の木戸孝允より恰好が良い。京都思い出の一つとしてカメラに収めてきた【29】。
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あとがき
• 三大祭りには種々の説がるが、三大祇園祭りといえば、京都の祇園祭・博多の山笠・会津田島の祇園祭らしい。何れもが、地域毎の歴史伝統に育まれてきたことだが、いずれもが今日と同じ感動を呼ぶに違いない。
• 人の協力・集まりがなければ、祭りも成り立たないが、それにしても、平和であればこそだと思う。
☆過日、知多半島の半田市で「はんだ山車祭り」を観た。此方は5年毎のイベントだが、広場に31台が勢ぞろいするもので、これも見応えがある。又「秩父の夜祭」も豪華絢爛の山車で、最後の団子坂を威勢の良い掛け声と共に駆け上がる勇壮さが見ものであった。地方独自の行事を観られることは有難いが、今回の祇園祭が見納めになるのだろう。
- 秩父夜祭
- はんだ山車祭り